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詩114篇/B

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瞑想Ps114/B

◆7節に「地よ。主の前に、おののけ」とあります。「おののけ」とは、「恐れおののけ」という意味ではありません。つまり、私たちの神に対する礼拝の態度を意味することばではありません。「おののけ」と訳されたフィールחִיל(あるいはフゥールחוּל)は、「ねじまげる」「ゆるぶる」という意味です。詩篇では「生みだす」(90:2)、「もだえる」(55:4)、「わななく」(77:16)、「おののく」(97:4, 114:7)とも訳されています。あるいは「産みの苦しみ」、「うめき」を意味する言葉です。

◆主として、自然界に対して使われています。神の民の行く手を阻む自然の力を「ねじまげて」でも、「ゆすぶって」でも、神がご自身の民の進む道を造り、かかわりを造られる方なのです。詩114篇には、自然の人格化された表現が多く登場します。
「海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れ、山々は雄羊のように、丘は子羊のように、はねた。海よ。なぜ、おまえは逃げ去るのか。」そして「地よ。主の御前におののけ。」です。ユダヤ人の使徒パウロもローマ書8章19, 22節で次のように述べています。

  • 「被造物も切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいます。(―なぜなら、被造物が虚無に服しているからですー)私たちは、被造物全体が、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています。」

◆世の終わりのひとつのしるしとして「地震」があります。今日も、世界のいろいろな場所で大地震が起こり、津波もそれに伴って、多くの犠牲者が出ています。人間はそうした自然の力に対してなんの力もありません。世の終わりには多くの大地震が起こることをイエスはオリーブ山の説教で語られています。

◆ハルマゲドンの最終戦争、そしてエルサレムの包囲によって多くのユダヤ人が虐殺されるという大患難時代が来ることを聖書は預言しています。そして人間的な助けが全くなくなったとき、キリストが天から降りて来られる前に、エルサレムは大地震が起こり、それによってはじめてその中に籠城していた残りのユダヤ人たちが、地震によって出来た脱出の道を通って難を逃れます。

◆聖書の歴史を見るならば、ソドムとゴモラのように地震によって跡形もなく滅ぼされた面もあれば、同じく地震によって救出される、あるいは神の大いなるわざが現わされるという面があります。たとえば、イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の幕は上から下まで真二つに裂けました。そして、地は「揺れ動き」、岩が裂けました。それだけでなく、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返ったのです。それらを見ていたローマの百人隊長は非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言いました。

◆イエスの復活においても地震がありました。マグダラのマリヤをはじめ、他のマリヤたちが本格的な埋葬のためにイエスの遺体を納めてあった墓に行ってみると、実際は、その墓はローマによって封印されていましたが、大きな地震が起こって、その封印された大きな石が転がされたのです。教会が誕生してから、福音がヨーロッパに伝えられる頃、使徒のパウロとシラスはピリピで牢獄に捕われの身となります。ところが、彼らが賛美していると、またもや大きな地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、扉が全部開いて、みなの鎖が解けてしまったとあります(使徒16:26)。これは理性では説明できないことです。そしてそのことを通して、看守とその家族が救われ、すでに主が心を開いていたルデヤの家族と共に、ピリピ教会が誕生したのでした。まさに、そこでは「地よ、主の前でおののけ」ということが事実起こっているのです。

◆この詩114篇は「エジプト・ハレル」詩篇(113~118篇)と呼ばれ、過越祭や仮庵祭などに伝統的に歌われていたものだと言われています。イエスとその弟子たちが最後の晩餐をした後に、そこを出て「ゲッセマネの園」の方へ向かいますが、そのとき、彼らは「賛美の歌を歌った」(マタイ、マルコ)と記されています。このときの賛美の歌とは「エジプト・ハレル詩篇」のどの歌を歌ったのかは記されてはいません。全部の詩篇を歌ったのか、それとも、その中の数篇を歌ったのか分かりませんが、もし、この詩114篇を歌っていたとするならば、まさにこれからイエスの身に起こることを預言的に歌っていた詩篇であったことのゆえに、驚くベはつながりです。おそらく、この賛美の歌を先頭したのはイエスでしょうから、弟子たちはそんなこととは知らずに歌っていたと思われます。イエスが十字架にかかる前の晩に、無意味に「賛美の歌を歌った」ということはないはずです。イエスのなさることはすべて意味あることと考えるべきです。そして文字通り、自然界の力は主の前に「おののいた」のです。その証拠が「地震」です。

◆ちなみに、詩113篇を歌われていたとしても預言的です。なぜなら、その詩篇には神が自ら、身を低くされて(身をかがめて)、すなわち、神のへりくだりの極み(受難)と復活を通して、詩篇113篇に書かれているように「弱い者をちりから起こし、貧しい者たちをあくたから引き上げ、君主たちとともに王座に着かせられることが」実現されたからです。

◆このように、「エジプト・ハレル詩篇」には、まだまだ知られていない多くのなぞが秘められているかもしれません。

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