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詩120篇/B

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瞑想Ps120/B

◆「都上りの歌」という表題をもつ詩篇120篇~134篇までの14篇におよぶ一連の詩篇、作者(あるいは編集者)がそこに意図したものはなにか、そのことに思いを馳せながら、これらを味わっていくことはとても楽しみです。

◆標題も翻訳者によってまちまちです。
「都上りの歌」(新改訳) 、「都に上る歌」(新共同訳)、「都もうでの歌」(関根訳、口語訳)」、「宮詣での歌」(岩波訳)、「上京の歌」(フランシスコ会訳、典礼訳)、「巡礼歌集」(A.ヴァイザー)・・など、さまざまです。

◆「都」「宮」とは、エルサレムのことであり、そこへ上る巡礼的性格を有した歌ということです。「上り」とは、エルサレムが神の民にとっての中心的な都であり、あらゆる民が集う祭り(礼拝)の場所であり、また事実、エルサレムは海抜800mのところにある山の上にあります。(脚注)また、キリスト再臨後には、あらゆる国々から神を礼拝するためにエルサレムに集まってきます。あるいは、エルサレムは天のエルサレムの写しであるゆえに、やがて神の民たちが住む、天の故郷、ゆるぐことのない天の都の比喩ということもできます。私たちも天の都をめざす巡礼者と言えます。

◆「都上りの歌」のキーワードとしては、「エルサレム、シオン、平和、山(山々)、寄留者、旅人、目を上げる、住む」などを挙げることができます。

◆さて、「都上りの歌」の最初にくる詩篇は、「私は山に向かって目を上げる」で有名な詩篇121篇ではなく、なぜ「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は答えられた。」で始まる120篇なのか。作者はいかなる意図でそこに120篇の詩篇を置いたのか、それは瞑想するに十分な問いです。

◆詩篇には、冒頭に来る部分が、序論でもあり、結論であるという特徴があります。とすれば、詩篇120篇そのものが「都上りの歌」の序論、つまり、本論の問題提起であり、結論、あるいは、その予告となっていると仮定することができます。詩120篇の冒頭の1節「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は答えられた。」も「都上りの歌」の結論ということが言えます。しかし、そこでの「苦しみ」とは何なのか、「答えられた」とはどういう意味で答えられたのか、その内容については何も語られていません。苦しみをもたらす事柄が問題提起されているとしても、その答えがどのように答えられたのか、「都上りの歌」全体を通して見なければ分からないようになっています。

◆まずは、最初の「都上りの歌」である120篇から、5, 6節を取り上げます。

  • 5節「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。」
  • 6節「私は、久しく、平和を憎む者とともに住んでいた。」

◆5節の「寄留する」はグール(גּוּר)、同節の「暮らす」と6節の「住む」はシャーハン(שָׁכַן)ということばが使われています。詩篇15篇にもこの二つのことばがセットで使われています。⇒詩篇15篇の瞑想を参照。
「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿る(גּוּר)のでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住む(שָׁכַן)のでしょうか。」という問いがあります。そこでは主の幕屋に宿る者、主の聖なる山に住む者とは、神に対して、人に対して、そして自分に対して・・・・の者だと述べています。しかし、詩篇120篇では、自分が当然の「宿るべきところ」、「住むべきところ」にはおらず、自分にはふさわしくないところ、居るべきところではないところに、しかも久しく(長い間)置かれていることの哀れさを嘆いています。しかもそこは、平和とは似つかない、好戦的な者たちに囲まれた場所、都から遠く離れた場所(「メシェク」・・小アジア北東部/創世記10:2/エゼキエル27:13, 38:2、「ケダル」・・アラビア・シリヤ北部/創世記25:13)です。

◆そうした場所に寄留し、天幕の傍らに住まざるを得ない自分の姿を「ああ、哀れな私よ。」と嘆いているのです。と同時に、その嘆きは諦めの嘆きではなく、むしろ、自分が本来居るべき場所である都への強烈なあこがれを示唆した詩篇ということができます。

◆詩篇120篇の最もすばらしい注解は新約聖書のヘブル人への手紙11章のアブラハムに見ることができます。

「9 信仰によって、彼(アブラハム)は、約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともにするイサクやヤコブとともに、天幕(移動可能な)生活をしました。10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都(共; 堅固な土台をもつ都)を待ち望んでいた。 13 約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜んで迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していたのです。 14 彼はこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。15 もし、出て来た故郷のことを思い出したのであれば、帰る機会はあったことでしょう。16 しかし、事実、彼らはさらにすぐれた故郷、すなわち、天の故郷にあこがれていたのです。・・事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

◆「平和」を求める作者は、都こそその場所であると確信していました。そして自分はその都で平和を味わいたいと願っていたのです。ここにいう「平和」とは、単なる争いごとがないという意味ではありません。神の祝福の総称としてのシャロームを意味します。しかし真の神のシャロームは、天にある都にあります。したがって、私たちキリスト者は、そこに向かって生きる、地上の旅人であり、寄留者なのです。

◆もしそのことを心に留めて、この地上を歩むならば、人生の最後は最善となり得ます。自分の人生というドラマの終結こそ最善であることが保証されます。使徒パウロもそのことを知っていました。彼はこう述べています。

  • 「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い栄光をもたらすからです。私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(コリント第二、5:16) 

◆最後に、一連の「都上りの歌」を通して、使徒パウロのいう「天からの住まいを着たい」という熱望、アブラハムの「天の故郷へのあこがれ」を希求する一人となりたいものです。


脚注
◆エルサレムは海抜約800メ-トルですが、エリコを通って行くと、エリコが海抜下約250メ-トルであるため、海抜800メ-トルのエルサレムまでは約1,000メ-トル「上る」ことになります。祭りを守るために都エルサレムに「上る」のは、実際に約1,000メ-トルも「上って」いかなければならない現実があったようです。

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