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詩122篇/B

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瞑想Ps122/B

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3節「エルサレム、それは、よくまとめられ町として建てられている。」(新改訳)
3節「エルサレム、都として建てられた町。そこにすべては結び合い」(新共同訳)

  • 「エルサレム」、そこはイスラエルの民のすべての部族を一つにまとめる神の都であり、巡礼の目的地です。詩篇122篇の作者はこのエルサレムの平和のために祈れと呼びかけています。
  • 3節の部分をヘブル語原典で直訳すると、「エルサレムよ、建てられている、町として、結び合わされた、そこに、一緒に」となります。動詞の「結び合わす」は「ハーヴァル」חָבַּרと、副詞の「一緒に」の「ヤフダーウ」יַחְדָּוを重ねることでより一層の親密な結び合いが強調されています。エルサレムはこの地上において唯一、ご自身の臨在の場所として選ばれた場所です。そこに御子イエスは十字架の贖いを成し遂げられ、聖霊によって教会が誕生した場所です。またそこにキリストの再臨があり、千年王国が実現される中心的な場所です。そこには神と人とのユニティーが実現されます。天と地がひとつになる場所でもあります。
  • ところで、「都上りの歌」の冒頭の詩篇120篇では「平和を願う自分」と「平和を憎む者」とが共に住んでいる現実から救い出してくれるようにと祈っていました。民族的な視点においては「ユダヤ人と異邦人」、宣教的な視点では「信者と未信者」、キリスト者個人の視点では「霊の人と肉の人」・・様々な領域において異なる二つの部分が対比しています。
    画像の説明
  • 詩篇122篇において、「エルサレム」が神の臨在の場所として考えるならば、他の様々な領域においても、神の臨在の場としてそこに平和が求められたとしてもおかしくありません。
  • 今日のカウンセリングの分野において、統合を意味する「インテグレーション・カウンセリング」(Integration)という言葉があります。ひとりの人間のうちにある相反するものを正しく見つめさせ、気づかせて、それを統合させていくプログラムです。決してたやすいことではないのですが・・。
  • 聖書的な統合を実現させるためには、私たちの内にある「霊」と「肉」の現実に気づく必要があります。肉は霊に対立するものであり、キリスト者となっても存在している力です。神から与えられた聖霊によって、私たちのうちにある肉を支配させることができなければ、御霊にあって生きる生き方を統合することができません。「聖霊によって導かれる」ということがどういうことを知ることができません。そうした訓練を毎日の生活の中で身に着ける必要があります。特に、自分の思い(感情)において霊の動きを識別することを訓練する必要があります。自分の思いや感情が霊から来たものか、あるいは肉から来たものかを識別して、肉から来たものであるなら、その思いと感情を拒否しなければなりません。そうした霊動識別の訓練を通してはじめてキリスト者としての統合ができるようになります。肉の思いや感情を後生大事に持ちながら、それに加えて神の平安を得ることはできないのです。
  • 平和を求めながらも、隔ての壁を作って戦おうとする自分がいます。愛にあふれた思いを感じながら、苦々しい思いを抱く自分もいるのです。感謝と喜びを感じながら、妬みを覚える自分がいるのです。このように考えるならば、「統合」、「平和」ということは決して容易ではないことが分かります。聖霊の助けによって、内なる戦いを訓練される必要があるのです。まずは、何が「肉」なのかを気づく必要があります。その意味では、瞑想における「振り返り」は、きわめて大切な営みと言えます。
  • 「平和のために祈りなさい」という呼びかけは、「御霊の原理によって歩めるよう祈りなさい」との呼びかけとして言い換えることができるように思います。

2011.6.17


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