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詩18篇/B

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瞑想Ps18/B

  • 前篇の17篇で「正しい訴え(正当な理由もなく、サウルによって逃避行を余儀なくされたこと)」をしたダビデに対して、18篇ではそれに応えてくださった神の守りの完璧さが告白されています。特に、神の完璧なセキュリティー用語が見られます。「力」「巌」「岩」「盾」「救いの角」「やぐら」など。敵の勢力がどんなに強力のようにみえたとしても、神の完璧な守りの中に自分があることを信じる者は幸いです。事実、ダビデは10余年の荒野での放浪生活が神の完全なセキュリティの中にありました。そこで今朝、私自身、この詩篇前半の味わうキーワードとして18節の「主は私のささえ」、19節の「主が私を喜びとされたから」としたいと思います。
  • すべてにおいて「主は私のささえであった」という告白だけでなく、「主が私を喜びとされたから」(新改訳)という告白は、とても大切な告白だと信じます。自分が神に愛されている存在だという確信を得ることこそ、すべての試みの意味・目的だと信じます。「主を信頼します」と口先で言うことはやさしいですが、これを体感し続けることは、ダビデと同様、多くの時間を必要とするようです。そうしたプロセスの中で、生存と防衛の保障のみならず、自分の存在そのものを喜びとしてくださる方との信頼の絆を深め、それを楽しむことこそ「永遠のいのち」への道であり、マリヤ・スタイルです。しかも、これが「初めであり、終わり」なのだと信じます。
  • Ⅱコリント1章21節には「私たちに油注がれた方は神です」とあり、Ⅰヨハネ2章27節では「あなたがたの場合は、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべのことについてあなたがたを教えるように、また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。」とあります。
  • 「油注ぎ」を求める者は多いですが、キリストのうちにとどまることがどういうことかを理解している者は少ないように思います。人からの受け売りではなく、キリストのうちにとどまることを通して与えられる真の油注ぎの力を、私も「今こそ知った」という者になりたいと願います。

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