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詩26篇/B

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瞑想Ps26/B

  • 前篇の詩篇25篇では「道」(主の道、選ぶべき道)が特徴でしたが、詩篇26篇ではその道を「歩む」という点に焦点があるように思います。しかも「誠実に」歩むこと。作者はこれまで、主の道を誠実に歩んできたし、これからも誠実に歩んで行きたいという強い意志が見られます。動機においても、思いにおいても、どこを調べられても、自分が誠実に歩み続けてきたという自信に満ち溢れています。ただ、作者の言う「誠実に歩む」ことと、1節の「弁護してく
    ださい」という祈りがどのようにかかわるのか、そこがこの詩篇を瞑想する鍵だと思います。
  • 「誠実」は、一般的な意味では「真面目」と考えてよいでしょう。しかし「真面目さ」だけではこの世を生きることはできません。この詩篇を読む限りにおいて、「弁護してください」という嘆願の背景には、裏表のあるずるさや偽善、袖の下と言われる賄賂がはびこっている状況があり、「正直者は損をする」といった背景が当たり前のようにはびこっていたことを想像させます。そんな世の中で、作者にとって不利な証言をされたり、あらぬうわさを立てられたりした
    場合、自分がどんなに「誠実に歩もう」としても、勝つことはできません。有能な弁護士が必要です。
  • キリストの福音に触れた方が、最近心の葛藤を経験するようになったことを話されました。その葛藤は自分の中にある醜い姿、ずるい自分というものを赦せないというところから来る葛藤でした。つまり、自分の良心が自分を告発しているわけです。神の道を歩んでみたいと思いつつも、自分の中にある醜いものを訴えているわけです。このように外部からの告発がなくても、自分の心のうちから告発される。これはあきらかにサタンの仕業です。サタンという言葉がそもそも「訴える者」という意味です。もし、自分を弁護してくださる方がいなければサタンの告発によって自分を見失ってしまうでしょう。多くの心の障害、心の病をかかえた人たちは、人一倍そのことに敏感で、自分で自分を守ろうとする戦いの結果、敗北した犠牲者と言えます。二重人格、多重人格といった人格障害者は、自分がありのままで受容されず、自分も自分を受容できなかった結果と言えます。もし、真の弁護者の存在を知り、その方の愛と力にゆだねることができるなら、心の病から解放されることができると信じます。
  • 誠実に歩むことと、自分の弁護者を知ることには密接な関係があるように思います。使徒パウロがいみじくもローマ書8章で述べているように、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれか、神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなして(弁護して)くださるのです。」と述べています。人からの、あるいは自分の内からの告発にも弁護してくださる愛に満ちたキリストこそ、私たちが知るべき、頼るべき唯一のお方です。しかも、その方は信じる私たちのうちに「助け主」(パラクレートス)としての御霊を遣わして下さっています。その御霊の保証のもとで、私たちは自分に対してはじめて「誠実」に生きることができるのだと信じます。

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