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詩33篇/B

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瞑想Ps33/B

◆詩篇33篇のキー・ワードを「目を注ぐ」としました。特に詩編の後半に出てくることばです。

  • 「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。」(13節)
  • 「御住まいからの所から地に住むすべての者に目を注がれる。」(14節)
    そして特に13節では「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。」とあります。

◆主の眼差しはきわめて繊細であり、配慮に満ちています。宇宙には主の目から隠れるものはなに一つありません。主はすべての者をお見通しです。宇宙にあるすべての存在とはかりごとをご存じですが、主を恐れる者に、主と主の恵みを待ち望む者に対して、特別に注がれていることがわかります。

◆かかわりのいのちの豊かさは、アイコンタクトによってもたらされます。夫婦の間で、親子の間で、兄弟姉妹の間においても、アイコンタトクは愛のしるしです。やましい思いや心があるなら、アイコンタクトはできません。騙しのアイコンタクトというものもあるでしょうが、やがては化けの皮がはがれます。目は心の健全さを映す鏡であり、双方の眼差しがぶつかることこそ、1節にある
「心の直ぐな人」と言えるでしょう。賛美はまさにそのような「心の直ぐな人たちにふさわしい」と言えます。

◆神とのかかわりを失ったアダムとエバは「主の御顔を避けた」と創世記3章に記されています。逆に言うと、救いの究極は、黙示録22章にあるように「神の御顔を仰ぎ見る」ことだと言えます。主の愛の眼差し(視線)は、主を裏切ったペテロに対しても注がれていたように、今も常に変わることなく、私たちひとりひとりに注がれています。そのことを知ることこそ、「主を恐れること」であり、「主を待ち望む」ことだと信じます。

◆主とのアイコンタクトをしっかりと持ち、保つことができること、それが詩篇の瞑想の目的であると信じます。

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