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詩43篇/B

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瞑想Ps43/B

◆前篇と共通しているテーマは「神への渇き」ですが、詩篇43篇ではその渇きは具体性をもっています。つまり、もう一度、エルサレムにおいて、シオンの聖なる山において、喜びの源泉である神を礼拝したいという渇きです。そのために、もう一度、シオンに帰還させてほしいという願いと、神を賛美したいという願いをもって神を待ち望んでいるのがこの詩篇の特徴です。

◆したがって、詩篇43篇のキーバースは3節の嘆願にあるように思います。「どうか、・・・あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かって、・・・私を連れて行きますように。」(新改訳) bring me back to Zion  シオンに帰還し、そこで神の臨在を楽しむこと、これが具体的な作者の神への渇きです。

◆バビロンの捕囚の地にあって、神の民の中にこうした渇きが起こってくることを神は願っておられたはずです。この渇きを起させるために、神は作者(神の民)を、一時「拒まれ」(新改訳)「突き放され」(LB訳)「見放され」(新共同訳)「捨てられ」(口語訳) たのかもしれません。神に対する強烈な飢え渇きなしには、詩篇1篇にあるように、神のみことばを昼も夜も口ずさむといったライフスタイルは生まれなかったに違いありません。しかも、神のみことばがなんと甘いものであるかということも経験できなかったはずです。再起への希求、それはシオンへの熱いあこがれであり、飽くなき飢え渇きをもって神を礼拝することなのです。

◆イエスが真の愛に飢え渇いていたサマリヤの女性に「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネの福音書4章23節)と言われたのは決して偶然ではないはずです。

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