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詩44篇/B

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瞑想Ps44/B

◆詩篇44篇の前半(1-8節)を見る限りは、なんともすばらしい神の恵みに対する賛美がなされており、圧巻です。これ以上の模範はあり得ないほどです。ところが、この詩篇は、「それなのに」(9節)「なぜ(御顔をお隠しになるのですか。)」(24節)と問いながら、光が見えない苦悩の中に作者は放置されています。

◆この詩篇に私はヨブ記と同じ主題があるのを感じます。ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている」者で、そのような者はこの地上にはいないと神から絶賛された人物です。その彼が、自分の息子娘を失い、多くの財産を失いました。ヨブの妻までもが「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神を呪って死になさい」と、完全に取り残されてしまいました。彼の友人たちが彼のところに訪れ、こんな禍にあったのは、ヨブの中に隠された罪があるからだとさとし、悔いあらためを勧めます。このことで、ヨブは自分が神に対して決して罪を犯していないことを訴えますが、どの友人もそれを受け入れてくれませんでした。友人たちは、神が正しい者をこんな禍に会わすはずがないと自分のたちの神学でヨブを理解しようとしました。それがヨブを悩ましました。

◆しかし、ヨブ記のメッセージは、私たちの現実が必ずしも自分たちの神学的な物差しでははかれないこと、理解できないことが数多くあるということを突き付けています。そのことをヨブが悟ったとき、神の祝福を受けました。

◆詩篇の「それなのに」、「なぜ」と問いかけざるを得ない事態の中に、信仰の成熟さへの道が開かれているのかもしれません。つまり、神の世界には私たちが到底理解しえないことがあるということを謙虚に認めることです。不条理を不条理としてそのまま認める信仰の姿勢です。ここに信仰による救いの究極の姿をみることができるのではないかと信じます。

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