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詩53篇/B

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瞑想Ps53/B

◆詩篇53篇も詩篇51篇と同様に、人間の罪の深さの現実を教えてくれる詩篇です。と同時に、神の嘆きが淡々と描かれています。「みな」「だれもかれも」「ひとりもいない」という言葉がそのことを示唆しています。芯まで腐りきって、捨てるしかない存在が、回復することは神にしかできないことです。イスラエルの歴史において、神の民の罪のゆえにもたらされた「バビロン捕囚」は、人間の罪深さを露呈しました。もしそこからの解放があるとすれば、神の主権的な解放によるしかあり得ません。この詩篇は神の嘆きとともに、神の主権的な救いによる希望が示唆されています。(8節)

◆使徒パウロもこの詩篇を引用して、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある者はいない、神を求める者はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」と、「いない」という表現が5回も使われていて、「すべての人が」、例外なく、罪を犯し、神からの栄誉を受けることができない」人間の全き堕落性の現実を述べています。罪とはなんでしょう。それは、的を外した人が自分から神を尋ね求めることができないことにあります。神からのかかわりのアクションがない限り、救いはあり得ません。

◆しかし、詩篇52篇のテーマである「神の恵み」がいつもあることを知る者は幸いです。パウロも、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」と、ローマ3章24節で述べています。無用で投げ捨てられて当然の私たちを、神が求められ、神の恵みによる信仰の義(救い)を与え下さっています。私たちは、キリストにあって、それを無条件に喜ぶことができ、楽しむことができる者とされているのです。

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