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詩60篇/B

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瞑想Ps60/B

◆詩篇60篇12節の「神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、敵を踏みつけられる方です。 」ーこれがこの詩篇の結論だと思います。1節から11節までの内容を知らなくても 12節だけを味わうことができるかもしれません。しかし、それではこの詩篇60篇の存在価値は薄れてしまいます。ダビデというと連戦連勝のイメージがあります。聖書の歴史書では、「主はダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」と記しています。実に、淡々と描かれています。そこではダビデの戦いにおける心の内はなにも伝わってきません。しかし詩篇ではダビデの心にあるものがありのままに伝えられています。そのことでダビデが私たちにとって、より近い存在となります。 詩篇の瞑想で大切なことは作者との「共感」です。「共感」によって、詩篇は現代においても、そのいのちを吹き返すのです。

◆ダビデはイスラエル全体の王となる前も、また、王となってからも戦いに明け暮れた人でした。しかしいつも連戦連勝であったわけではありません。かなりの苦戦を強いられることもあったのです。詩篇60篇の9~10節を見るとそれがわかります。特にエドムとの戦いがそうであったようです。「だれが私を防備の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで導くでしょう。」とあります。おそらくダビデはエドムとの戦いにおいて苦戦し、ある意味で敗戦を嘆いています。 それがこの詩篇60篇です。ダビデは神に訴えます。

  • 「あなたは、御民に苦難をなめされられました。」(3節)
  • 「神よ。あなた自身が私たちを拒まれたのではありませんか。・・もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。」(10節)
    私たちも、苦難や苦境に立たされるとき、その状況に支配されて、神の不在と拒絶を感じてしまう弱い者です。しかし、神は

◆しかし神は、彼らを励ますかのように聖所から語られました。6節~8節はおそらく「預言」という形で人を通して語られたと思います。ここでの預言の意図は、地のすべてを支配しているのは神ご自身であるということだと思います。おそらく、苦戦を強いられたのは、私たちの弱さを知らされ、神だけが敵を踏みつけられる方であることを、思い起こさせるためであったと信じます。

◆頑張りの世界ではなかなか弱音を吐くことができません。しかし、神の世界においては、自分の弱さを知り、認めることによってはじめて神が働かれる世界です。

◆神は、私たちに神に依存することを学ばせるためにさまざまな窮地へと陥れるようです。ダビデも王になる前も、王となってからもこのことを学ばされました。信仰の歩みには卒業はありません。

◆主がパウロに語られた「わたしの力は弱さのうちに完全に現われる」(Ⅱコリント12章9節)とのことばは、神への依存を促すものです。また、イエスが乳飲み子たちを呼び寄せて語ったことば「神の国はこのような者たちのものです。」(ルカ18:16)も同じことを意味しているように思います。

◆「敵を踏みつけられる方」こそ私たちの神です。この神に信頼して、どんな戦いもあきらめることなく、信仰に立って、神と共に戦う戦士でありたいと思います。

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