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詩69篇/B

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瞑想Ps69/B

◆詩69篇には、作者が経験した事柄の中にイエス・キリストに当てはめられている箇所が三箇所あります。
①4節の「ゆえなく私を憎む者は・・」。これはヨハネの福音書15章24,25節に「『彼らは理由 なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることが成就するためです。」(理由なしに とは、不法にという意味です。憎む理由は確かにあったのです。それは妬みによるものです)と引用されています。

②9節の「それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす。」これはヨハネの福音書2章 17節で引用されます。神を思う熱心さが苦しみを引き起こすという意味です。

③21節「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え(口語訳では「毒を入れ」)、私が渇くと きには酢を飲ませました。」。これは福音書のすべてが引用しています。マタイ27:34,48、マルコ15:36、ルカ23:36、ヨハネ19:28~30。 「食物」とは生きるに必要なエネルギーです。人からの励ましや慰めをも意味します。それを最も必要とする時に、人々はその食物に毒を入れたのです。なんいう仕打ちでしょうか。

◆さて、詩篇69篇のキー・ワードは「そしり」です。そのことばがなんと6回も出てきます。 「そしり(謗り、誹り、譏り、)」とは、人を非難し、けなし、悪しざまに言う言葉です。そしられることで、私たちはしばしば掻き乱され、傷つけられます。私たちがそしりによって翻弄されると、肉の思いによって反応し、新たな混乱と罪を生じる言動となります。そしりとは、今日で言う陰湿な「いじめ」です。

◆13節からは、このそしりから救い出してほしいとの嘆願がなされています。そして再度、窮状が神に訴えられます。「そしりが私の心を打ち砕き、私はひどく病んでいます。」と。(20節) 

◆「ひどく病んでいる」という部分は、口語訳では「わたしは望みを失いました」 新共同訳では「わたしは無力になりました。」 LB訳では「ふさぎの虫になりました。」と訳されています。しかも、だれも同情してくれる者はいない。慰めてくれる者もいない。私の心の苦しみをわかってくれる者は誰もいないという孤独が追い討ちをかけます。それどころか、「私の食物(生きるエネルギーとなる同情や慰め)の代わりに、苦味を与え(毒を入れ)、私が渇いた時には酢を飲ませた」と。まさに、生きるすべての力を奪う、それが「そしり」の恐ろしさです。イエス・キリストもこの経験を受けられたのです。

◆今日の日本でも、多くのいじめが学校で、職場で横行しています。そして人を死―精神的な死もふくめてーに追いやっている現実があります。このいじめの問題は、教育、行政、道徳では、解決することができません。なぜなら、その陰湿さは人間のもつ罪に深く起因しているからです。

◆「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」という詩篇がありますが、人間の力では助けは不可能です。理解してもらおうと、言葉数を増やし、どれほどの知恵や知識や論法を駆使したとしても、ただ疲労を深めるだけです。神の助けが必要です。また、私たちがいじめ(そしり)に対して正しく対応するためには、神の訓練が必要なのです。Ⅱサムエル記16章5節~14節には、ダビデのそしりに対する神の訓練が記されています。ダビデの訓練は、そしる者の心の内を理解することでした。そして、そしる者にも実は心の傷があることを知ることでした。そうした現実の中に神のメッセージを受け取ること、ここに神の訓練があると思います。  

◆最後に、詩69篇29節の「・・わたしは悩み、痛んでいます。神よ。御救いが私を高く上げてくださるように」という祈りは重要だと信じます。それは、神こそ私たちの究極的な救いであることを告白することばだからです。神以に、そしりの問題、いじめの問題に対処する力は、どこにもないと信じます。どんなに社会正義に訴えたとしても、それによっては心に受けた傷は癒えません。イエス・キリストの十字架の苦しみと復活の事実こそ、すべての解決の光だと信じます。

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