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詩73篇/B

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瞑想Ps73/B

◆英国の偉大な説教家であるD・M・ロイドジョンズ師は、詩篇73篇について1965年、ウエストミン・チャペルにおいて説教しています。(邦訳「試練の中の信仰」、櫛田節夫訳、聖書図書刊行会、1971)。彼は、その本の序においてこの詩篇についてこう書き記している。「詩篇73篇は、神の民がしばしば迷い、落胆する問題を取り扱っている。それは二重の問題を含む。悪い者はしばしば実に富み栄えているように見える。一方、正しい者は苦しむことが多い。なぜであろうか。この詩篇は、その問題対する聖書の昔ながらの考え方を述べたものである。記者は自分の経験を述べながら、最も劇的な方法で自らのたましいをさらけ出し、絶望寸前から最終的勝利と確信へと一歩一歩導かれていく様子を映し出す。これは、同時に雄大な神義論でもある。」と。

◆この詩篇が強調していることは、1節「神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い」という命題(結論)をすべての人が悟ることです。しかしそれ以上に大切なことは、作者はこの命題(結論)にどのようにして到達したか、その方法とプロセスです。作者はこの命題から出発し、それから迷い出、またそこから再び帰ってきています。

◆この詩篇の転換点は、17節の「私は、神の聖所に入り」という部分です。これは単に建物としての「聖所に入る」という意味ではなく、「神の臨在の場としての、あるいは、神の秘密にふれる場としての聖所に入る」ことであり、そこでは「神に向かって、顔と顔とを合わせるほどに親しい交わりを持つ」ことを意味します。そこに入るまでの作者は、思いも心も深い苦悩の中にいました。しかしそれは「神の聖所に入る」までです。作者は聖所において瞑想し、1節の「神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い」という命題を、再度、気づかせられたということです。

◆今日に生きる私たちキリスト者も、自ら、「聖所に入ること」が求められます。そこではおそらく神に対する考え方が正されるに違いありません。聖なる神を見た預言者イザヤは、神についてこう語っています。

  • 「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」(イザヤ55章8節)

◆「聖所に入る」までは、神の思いと神の道を悟ることができず、依然として苦悩の中に据え置かれるかもしれません。私は祈ろう。-「私の目を開いてください。私があなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」(詩119篇18節)、と。

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