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詩81篇/B

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瞑想Ps81/B

  • 5節後半「私は、まだ知らなかったことばを聞いた。」

◆この作者が5節後半で「私は、まだ知らなかったことばを聞いた。」と述べているその内容は何なのでしょうか。私は、思うに、10節の「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」ということばと、「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」という神の約束だと信じます。

◆イスラエル人たちは毎年3回(春の過越祭、それから50日後の収穫祭、そして秋の二週間に渡って行われる新年、大贖罪日、仮庵祭)にエルサレムに巡礼することが定められていました。それは強制的であり、参加しなければ神の民とみなされませんでした。いわば神の民として神の恵みに対する当然の義務でした。大変と思う人もいれば、その時こそレジャー心をくすぐる楽しな時でもあったはずです。しかし、長い間に渡る仮庵祭が終わって帰途に着くとき、どれほど民の心が満たされていたかは分かりません。おそらく、華やかな祭りの後に訪れる空しさを抱えながらの帰途であったかもしれません。そうした背景を前提として、先の神の約束を考えるとうなずける面があります。

◆イエスも仮庵祭が最高潮に達する「祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言ってとおりに、その人の心の奥底から、生ける川が流れ出るようになる。』」(ヨハネの福音書7:37, 38)と言われました。祭りの後に感じる空しさ、たましいの渇きを前提にしての招きです。

◆私たちは祭りや、はなばなしいミニストリーに後に心が満たされるように思いますが、それは錯覚です。本当の心の満たし、たましいが満ち足りるということは、そうした活動からはもたらされません。むしろ渇きが激しくなるのです。

◆イエスが言われた「生ける水」とは聖霊のことです。詩80篇では神が満たそうと言っておられる内容については特に語られていませんが、それは私たちにとって良いものであり、満ち足りる何かです。私たちにとって神は良いものを与えてくださいますが、マタイ7:10, 11節に「あなたがたは、たとい悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。だとすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。」とイエスのいわれたことばが記されていますが、イエスの「良いもの」とは、ルカによれば「聖霊」のことだとはっきりと記されています(11:13)。また、イエスはサマリヤの女に「もし、あなたが神の賜物をしっていたなら、あなたの方から求めたことでしょう。」と言っています。私たちはこの神の賜物である聖霊について、それがどんなに驚くべき賜物であるか、ほとんど気づいていません。

◆ところで、ギリシャ語で「満たす」ということばば二つあります。一つは時間的な満たしを意味する「プレーロー」で、「時が満ちる」「預言者の語られたことが成就する、実現する」という意味です。もうひとつは空間的な満たしを意味する「ピンプレーミ」で、新約で22回使われていますが、そのうち20回はルカが福音書と使徒の働きで使っています。それは神の霊で、聖霊によって満たされるという意味で使われています。「聖霊に満たされる」ということばは、まさにルカの特異用語です。

◆イエスを信じる者にはだれでも聖霊が与えられています。しかし、聖霊が与えられることと、聖霊に満たされることとは全く違います。だれかが1時間なんでも話してもいいと言われて語り出すならば、その人の心にあることがみな出てきます。良いことだけでなく、悪いものもすべて出てきます。なぜならその人の「心に中にあるものすべてが」出で来るからです。しかしもし、その心に「聖霊が満たされている」なら、神の事柄が、当然、神のすばらしいことが溢れるばかりに出てきます。初代教会の人々が「聖霊に満たされた」とありますが、それが初代教会の標準でした。ですから、たとえ迫害があっても、壁に突き当たっても、内から流れてくる神の霊の力に押し出されるようにして新しい神の出来事がなされていきました。

◆私たちにとって、この「聖霊に満たされる」ことは古いことでしょうか。未だ知らない経験でしょうか。もう一度、詩篇81篇10節の「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」という神の約束を新しく受け留めてみたいと思います。

◆私たちの主イエス・キリストが啓示して下さった父なる神は与えることを喜びとする神です。しかもその与えるものは、豊かであり、満ち満ちています。使徒パウロは「すべての必要を満たす神」を経験していました。ですから、彼の手紙の中にはそうした表現が随所に溢れています。たとえば、エペソ書では、「あわれみ豊かな神」(2:4)「大きな愛」(同) 「すぐれて豊かな御恵み」(2:7)「私たちに賜る慈愛」(同) 「栄光の豊かさに従い」(3:16)「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、豊かな施すことのできる神」(3:20) 「私の神は、キリスト・イエスご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)など、栄光の富、豊かさはすべて「神の愛」を言い換えたものです。

◆天の父は豊かに与えることにおいて、神としての風格(Majesty)を持っておられる方です。しかも良いものを与えたくてしかたがない方なのです。詩篇81篇において、神がご自身の民に最良の小麦を食べさせ、岩の上にできる蜜(これはナツメヤシのこと)で満ち足らせよう、と約束されたように、私たちは私たちにとつて最も必要な良いもの、すなわち聖霊によって満たされることができると信じて、それを求める生き方をしたいと思います。

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