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詩84篇/B

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瞑想Ps84/B

◆「恋い慕って、絶え入るばかり」これは詩篇の1節です。なんとロマンチックな表現でしょう。恋をした人は分かると思いますが、憧れの人を思うだけで、考えるだけで、心が締め付けられる感じになるのです。ましてや目の前にその人がいるなら心が張り裂けるほどです。しかし残念ながら、詩篇は、単なる神との愛のロマンスを描いたものではありません。

◆「失ってはじめて知る価値」というものがあります。私たちの人生の中で、普段、何気なく自分に与えられているものが何かの時に失って、その価値がわかるということがあります。例えば、健康です。健康な時にはその有り難さはわからないのですが、病気になってはじめて、自分が今まで健康が与えられていたことに気づくのです。人の存在価値も失ってはじめて知るということがたくさんあります。

◆ところで、イスラエルの民たちはイスラエルにいる間、神殿がある間、礼拝はしたのですが、それは単なる形式的な信仰にしばしば陥ってしまいました。なんと彼らは神殿で礼拝しながら、他の神々を慕ってしまい、その結果、彼らは神の懲らしめとして、バビロンの捕囚の民となって引かれて行きました。かつて神を礼拝し、神の民の心の拠り所となっていたエルサレムの神殿は焼き払われ、亡国の憂き目を経験しました。彼らは、バビロンの地で、自分たちはなんと幸いなところにいたのか、とはじめて気づいたのでした。

◆作者は、かつて神を礼拝するためにエルサレムに行ったことを思い出し、いつかそこにまた戻りたいという思いが募りました。それを思うだけで、「私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌いたい」という状態になっているのです。しかしそれはまだ憧れだけです。恋い慕っているだけで、実現はしていません。もしそれが実現したらどんなことになるでしょう。うれしさのあまり失神してしまうかもしれません。

◆私たちがいつも神を礼拝することができることは特権であり、とても幸いなのだということを、失ってはじめて気づくのはさびしいことです。しかしそれもまた価値あることかも知れません。

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