詩94篇/B
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瞑想Ps94/B
◆神の愛を信じている人にとって、「復讐の神」という表現はつまずきになるかもしれません。しかし、詩篇は人間のありのままの感情をありのままに、せきららに綴っているということにおいて価値があります。不当な仕打ちを受けた者がその相手に対して報復したいと思う気持ちは、私たち人間だれもが持つ感情です。世界の歴史は、報復の連鎖によって綴られていると言っても過言ではありません。しかしながら、この詩篇の作者はその感情を神に向け、神の正義によって報復してくださるように祈っているところがすばらしいところです。
◆1節の「復讐の神」(新改訳、岩波訳、バルバロ訳)、「報復の神」(新共同訳)、「仇を返される神」(関根訳)、「さばきを現わす神」(典礼訳)に対して、「光を放ってください」(新改訳)、「輝き出てください」(岩波訳)、「あらわれよ」(バルバロ訳)、「顕現し」(新共同訳)、「光り輝いてください」(典礼訳)と訳されていますが、その意味するところは、全地のさばき主として、正義を執行してくださいという祈りです。
◆「光を放つ」と訳されたヘブル語はヤーファーיָפַע(yapha`)で、旧約では8回、詩篇ではこの箇所以外では50:1と80:1に使われているだけです。英語では shine forth と訳されています。
◆長い間(400年間)、異邦人によって支配されてきたイスラエルの人々は、この異邦人の支配をくつがえて報復してくれる王(メシア)を待ち望んていました。それ以外に考えられないことでした。しかし、イエスが宣教を開始されるとき、会堂でイザヤ章61章が読まれたとき、この預言は今日成就しましたと宣言されました。ところが、そこにいたユダヤ人たちはこのイエスを殺そうとしました。なぜならイザヤ書61章の預言の中で、「主の恵みの年を告げ知らせ」というところで止まり、その後の「復讐の日を告げる」ということばを省いてしまったからです。
◆神の王としての統治において、最終的なさばきは延期された形です。さばきのない救いはありませんる最終的なさばきはありますが、今は、「毒麦」はそのまま抜かずにおかているのです。ここに神の聖なる救いのプロセスがあります。
◆私たちはすぐにでも正義によって悪がさばかれるようにと願いますが、神のなさることは聖です。イエスも「わたしにつまづかない者は幸いです」と言われたのも、神のさばきは私たちの思いや考えを越えているからです。
◆この94篇の作者は、「光を放ってください」と、神の正義が執行されて、悪を亡ぼして下さいと願いながらも、けっしてそうならない地的現実の中にあって、12節以降にみられるように、「神のみおしえを教えられている人は幸いだ」と目が開かれていきます。たとえ信仰の歩みがよろけたとても、主の恵み(ヘセド)が自分を支えてくれること。たとえ思い煩い(不安や心配)が増したとしても、、主の慰めが自分のたましいを喜ばしてくださるという現実また確信しています(18~19節。この確信こそ、この詩篇を支えているものだと思います。