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詩97篇/B

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瞑想Ps97/B

◆神が王として支配する神の国(御国)の基調は、「喜び」と「楽しみ」です。それは「ダビデの幕屋の霊性」ともいうべきものです。モーセの幕屋にはなかった新しい基調なのです。

◆特に、93~99篇の「王の詩篇』と呼ばれる一連の詩篇の中で、この詩97篇には「喜び」を現わす語彙が5回使われています。

  • 1,8節「こおどりする」(ギールגִיל) 岩波訳「歓喜する」、関根訳「喜び呼ばわる」
  • 1,8,12節「喜ぶ」(サーマフשָׂמַח)

◆キリストの初臨の時には、「喜び」が支配しました。ルカの福音書にはそのことが記されています。そのひとつである「マリヤの賛歌」(創作賛美歌)では、「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」とあります。その理由の第一は、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったから」です。第二の理由は、力強いわざのゆえ」です。心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力のある者を追ういら引き下ろされ、低い者を田かく上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ「とその逆転の恵みを記しています。

◆しかしそうした喜びはまだ「種」のようなものです。やがてキリストの再臨の時には、それが30倍、60倍、百倍の規模で鮮やかに実現するのを私たちは見るのです。

◆王の統御、支配にあって、私たちは生存と防衛の保障が与えられているだけでなく、神の目に留められ、愛されるという存在論的な喜びを経験できます。そうした喜びをもつ者は生きることにおいて、自信を与えられるだけでなく、その人自身に与えられた能力のすべてが引き出されてきます。なぜなら、「喜び」と「楽しみ」は何ら強制的な義務もなく、すべてが自発的だからです。それは与えられた時間や賜物、チャンスや立場など、すべてが楽しみの材料となります。そして創造的なものが生まれます。時間に制約されているという意識はなく、また疲れません。それが「喜び」と「楽しみ」がもたらす力と言えます。

◆神の支配のもとに生きる者たちは、まさに聖なるホモ・ルーデンス(遊び人)と言えます。換言すれば、聖霊に満たされた人です。

◆主にある喜びと楽しみは、今はまだ「種」です。しかしやがてキリストと婚姻の時には永遠の喜びに変わります。そのことを考えただけでも、「主は王として統べ治められる」という現実に心踊らされるのです。

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