****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

詩99篇/B

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瞑想Ps99/B

◆詩篇99篇の特徴は「王であられる主」は「聖である」ということです。詩篇99篇に(3,5,9節)に見られます。詩篇22篇3節にも「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と告白しています。預言者イザヤも「高く上げられた王座に座しておられる主を見た」とき、セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と賛美しているのを聞きました。(イザヤ書6章)

◆「聖」とはヘブル語で「カドーシュ」。区別されていること。比べられないこと、分離され、超越していることを意味します。神を「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美するのを讃詠(サンクトス)は、三位一体をたたえる「頌栄」とは異なるものとして、キリスト教会の中で歌われてきました。3度繰り返すのは、三位一体の神であるゆえかもしれません。

◆今日、「主が聖である」ことを歌った賛美歌がありますが、一見、その歌詞の中身は乏しいように見えます。しかしそれは説明的な歌詞を入れる余地がないほど、「聖」ということばそのものが神の本質を物語っているからだと思います。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」としか言えないほど、このことばが意味することは極めて深く、人間的な知恵など及ばない世界なのです。

◆詩篇93篇から続く「主は王である」というテーマがここにきて、「主は聖である」と告白されます。つまり「王なる方は永遠に聖であられる」ということです。そして「国々の民」に対して、「恐れおののけ」「ほめたたえよ」「あがめよ」「ひれ伏せ」と呼びかけています。主が聖であることと、賛美と礼拝は密接な関係にあるようです。

◆教会の中に、再び、サンクトスの賛美が聖霊に取り戻され、歌われるべきだと考えます。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」というサンクトスの賛美こそ、きわめて瞑想的な賛美と言えるかもしれません。

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