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赤い雌牛の規定による汚れのきよめ

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民数記の目次

17. 赤い雌牛の規定による汚れのきよめ

【聖書箇所】 19章1節~22節

はじめに

  • 「聖書を横に読む」ための手引きの一つとして、旧約の様々な出来事、あるいは規定は、本体であるキリストの予型、あるいは影であることを意識することです。逆から言えば、新約の恵みが旧約ではどのように教えられていたかを意識することによって、聖書全体がつながるだけでなく、そこに深い神の計画とその本体の重みが一層明らかになるということです。
  • 18章の「塩の契約」においても、主に仕える祭司やレビ人たちは与えられるものの10分の一は、それぞれ神にささげるということが規定されています。なぜこのような規定がなされたかというならば、什一を神にお返しすることによって、すべての必要は神から与えられるという信仰を表明する恵みの手段だったのです。こんにちのキリスト者に対しても、自分に与えられる収入の什一は神のものです。それを神に返すことなく、自分のために使ってしまうならば、神から与えられるという信仰の確信が稀薄になり、その結果、不安を増すことになります。旧約の神の規定のうちに大切な事柄が隠されており、新約時代の人々のために書かれているのです。
  • 19章も民数記においては最も重要な章のひとつで、やがて新約のキリストの贖いの優位性と完全性を指し示しています。

1. 罪の汚れをきよめる「赤い雌牛の規定」

  • この19章において顕著な事は、第一に、「汚れ」を表わす語彙である動詞「ターメー」טָּמֵאが10回、形容詞「ターメー」טָמֵאが6回、名詞「トゥムアー」טֻמְאָהが1回と合わせて17回使われていることです。その反対の「きよめ」は4回(すべて形容詞「ターホール」טָהוֹר)使われていることです。
  • 「汚れをきよめる」赤い雌牛の規定は、礼拝を規定しているレビ記には記されていおりません。なぜ「赤い雌牛の規定」が民数記に記されているのでしょうか。しかも赤い雌牛をアロンではなく、その息子の祭司エルアザルのところへ引いていくとはどういうことなのでしょうか。
  • 思うに、民数記の舞台は荒野です。荒野の旅は人生を意味しています。人生において繰り返し起こってくる汚れの問題に対して、神が備えたきよめの手段が「赤い雌牛の規定」です。なぜ「赤の雌牛」なのか。それは「赤」は血といのちを意味します。「雌牛」は新しいいのちを産み出す象徴です。しかもその「赤い雌牛」は、「傷のない、しかもくびきの置かれたことのない」完全な雌牛でなければなりませんでした。「傷のない」とは罪のないことを意味し、「くびきの置かれたことのない」とは、罪のくびき(罪の奴隷)となったことのないものを意味しています。やがて来られるイエス・キリストはまさにそのような方であることを指し示しています。
  • 「赤い雌牛」の血が会見の天幕の正面に向かって七度振りかけられます。「七度」は完全数です。祭壇で焼かれた雌牛の灰が集められ、それが湧き水と混ぜ合わされて「きよい水」を作ります。その水がすべての汚れをきよめることができると規定されます。その水は宿営の外のきよい場所に保存され、必要があるたびに使われました。イスラエルの会衆も祭司やレビ人もこの水によって、汚れからきよめられたのです。しかしその効果はそのときだけでしか有りませんでした。このような儀式が延々と繰り返されたのです。ところが・・

2. キリストの血は汚れをきよめる完全な力をもっている

  • ところが、キリストの血潮は私たちのすべての罪の汚れを完全に、しかも一回限りの永遠の効力を持っています。そのことがヘブル人への手紙9章12~14節に記されています。

【新改訳改訂第3版】
ヘブル9章
12
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13
もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

  • 特に、9:14には、キリストの血の力について以下のように三つの働きが語られています。

(1) 良心をきよめる力・・・「どんなにか私たちの良心をきよめて」悔い改め

人間の良心は、罪によって汚されており、汚れた良心は、人にとって負い目となります。パウロは自らの中にある罪を認めてこう言いました。「私には自分のしていることがわかりません。私には自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことをしているからです。」(ローマ7:15)とあるように、人は無意識的にそうした良心の咎めを持っています。どんなに、言い訳、弁解、仕事、趣味、宗教、善行等で繕おうと務めてもその「良心の呵責」があれば真の自由を得ることはできません。しかしキリストの血はそのような「良心の呵責」から完全に解放してくれます。

(2) 生き方を変える力・・・「死んだ行いから離れさせ」新生

キリストの血潮は、人を縛っている罪のくびきから解放することができます。ザアカイはその一人です。彼はキリストと出会ったその日から新しい人に変えられました。人の心に罪が支配している間は、人は「死んだ行いの奴隷です。人は「新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」のです。キリストの血潮と御霊による新生は人を全く新しい人に造り変えます。使徒ペテロもこう語っています。「あんたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、・・傷もなく、汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:19)と。

(3) 人を生かす力・・・「生ける神に仕える者とする」聖化

キリストの血は神から離れた人を神に連れ戻すだけでなく、新しい歩みをさせる力を与えます。「古い生き方」から解放され罪を離れるならば、「神に仕える」という新しい目標、真の生きがいをもつようになります。「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:13)とパウロは進めました。ちなみに、ここで「ささげる」(「パリステーミ」παρίστημι)という語彙は「自らをして神の前に立たせる」という意味です。主の死にあずかるならば、主のよみがえりの力にもあずかることができ、そのような人は神の前に立つことができ(ささげて)、神のために実を結ぶ生涯へと導かれるのです(ローマ6:5, 22)。

  • このようにキリストの血の力を知ることは、私たちをして、責められることなく、臆することなく、大胆に、神の前に立つことができ、破格の恵みによって歩くことのできる力を与えられるのです。


2012.2.10


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