****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

過越を覚えるための規定


10. 過越を覚えるための規定

【聖書箇所】 12章37節~13章16節

はじめに

  • 壮年の男子だけで60万人、女性や子どもを含めるなら200~300万人にも及ぶ奴隷の全集団が一夜にしてエジプトを出るという前代未聞の出来事が起こりました。そのとき、主は「寝ずの番をされた」(出12:42)とあります。「寝ずの番」ということばはここにしか使われていないことばです。「された」という動詞は原文にはありせんが、主が徹夜で彼らを守られたということでしょう。そのことを覚えるため、イスラエルの民が過越の祭りをするときには徹夜で祝ったようです。
画像の説明
  • 13章には四度、「(それは)主が力強い御手で、あなたがたをそこ(エジプト)から連れ出されたからである」( 13:3, 9, 14, 16)とあります。つまり、過越の出来事によって奴隷の家であるエジプトから連れ出されたことを覚えるために、主はさまざまな規定を与えられました。記されている順に挙げてみると以下のようになります。

1. 過越に関する規定

(1) 過越の食事にあずかれる者の資格
在留異国人も含めて、過越の食事にあずかることのできる者は、割礼を受けた者だけであるということです(12:43~49)。つまり、無割礼の者はそれにあずかることができないということ。「割礼」とは神との契約関係にあることを示すしるしです。

「過越の食事」は今日のキリスト教会においては「聖餐式」に当たりますが、陪餐の資格が教会によってまちまちです。洗礼を受けている者だけという教会もあれば、洗礼を受けてなくても、キリストを信じていれば良いとする教会、信じていなくても求道していれば良いとする教会・・と聖餐に対する考え方はまちまちです。しかし、旧約の過越の食事に預かることのできる者は割礼を受けた者であるというのが、過越の食事にあずかることのできる明確な基準でした。

(2) 祭りとして祝うこと

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約束の地において、毎年決まった日(アビブの月の14日目)に「過越」の祭りを行うこと。この祭りと続く七日間は聖なる会合として、「種を入れないパン」を食べること。しかも、この期間は身の回りから一切のパン種を取り除くこと。これらのことをワンセットとして行うようにという規定です。

(3) 自分の息子に記念としての祭りの意味を説明すること
イスラエルの中で、主の祭りとして規定される事柄については、息子が説明を求めるときも、そうでないときにも、父は子にその祭りの意味するところを伝えるべきことが規定されています。


2. すべての初子は主のものとして聖別する(ささげる)こと

  • イスラエルの民が救い出されるに当たって、エジプト中のすべての初子(人も家畜も)のいのちが犠牲となりました。それゆえ主は、「すべて最初に生まれる初子は、みな主のものとして聖別すること」を求めました。ただし、家畜の場合の初子は「雄」、人の場合の初子は「男子」と規定されています。ですから、初産で生まれた子が女児であったり、雌であった場合には適用外ということになります。また一度流産したあとで、生まれた長男も対象外ということです。特例として、ひづめの割れていないロバの場合は子羊で贖わなければならなかったようです。
  • 「初子」をあらわす語はヘブル語では二つあります。ひとつは「べホールבְּכוֹרで「長子」とも訳されます(出11:5/12:12, 29/13:2, 13, 15)。もうひとつは「母の胎から最初に生まれるもの、はじめて胎を開くもの」という意味の「ペテルפֶּטֶרです(出13:2, 12, 13, 15)。ここでは類語を重ねていますが、同じ語を重ねることで強調するのは、ヘブル語特有の表現法です。
  • ちなみに、「初子の思想」はより広く展開していきます。最初に収穫された物を「初穂」と言いますが、初子と同様に、それも主のものとしてささげるべきことがレビ記で規定されています。「イスラエル」は諸国における初穂であり、その中のレビ人も「初穂」であり、神ご自身の所有とされます。また、イエスご自身は「死者の中からよみがえった」初穂であり、イエスの御名によって救われた人は、ユダヤ人であろうと異邦人であろうとすべて「神の初穂」となるのです。

3. 代価を支払う(贖う)という責務

  • 聖書においては、与えられた自由は無償で得られたものではないという考えが根底にあります。イスラエルの民はエジプトの圧制から救い出されて自由を得ましたが、その背景には多くの初子が犠牲となっています。自由を得た者は「ああ良かった」で終わらず、犠牲となった者の代価を払う(代償をつぐなう)という責務があるというのが神のみこころです。そのひとつが、家畜の場合にはその初子を神へのいけにえとしてささげるという形で、人間の場合にはその初子の代わりに銀5シェケルを神に支払うという形であらわすことが定められています。このように初子の聖別の真意は、自由は血を流す犠牲によってはじめて得られるものだということを神の民に教えることにあったのです。
  • 新約聖書の場合においては、サタンの暗闇の圧制から愛するイエスの御支配の中に移されて自由とされた私たちも、犠牲となってくださった神のひとり子であるイエス・キリストの死という代価に対しての、それに見合う正当な責務があります。しかしその責務とは神と人に対して「愛する」という責務です。それが律法(トーラー)の中で最も重要なこととして教えられているのです。

2011.12.13


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