****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

長血の女とヤイロの娘の救い

30. 長血の女とヤイロの娘の救い、そして「メシアの秘密」

【聖書箇所】8章40節~56節

はじめに

  • イエスがある日、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言って、自ら舟に乗り込み、弟子たちもそれに追従しました。向こう岸へと進んでいる途中、突然、嵐に遭うという出来事がありましたが、そのことは弟子たちの信仰の貴重なレッスンともなりました。向こう岸(ゲラサ人の地方)に着いて上陸すると、ひとりの汚れた霊に取り憑かれた人と出会いました。イエスはその人のうちにいる悪霊を追い出したことで、その人は完全に正気に返ったのでした。
  • 汚れた悪霊につかれた人の解放される似た出来事がルカ4章31~36節にもあります。その出来事が起ったのは宣教の本拠地であるカペナウムの町でしたが、今回のテキストであるルカ8章26~39節の出来事はガリラヤ湖を挟んで向かい側にあったゲラサ人の地方でした。そこから、イエスは再びカペナウムへと戻りますが、それまで群集は、イエスをずっと待ちわびて(受けて)いたのでした。
  • そこにヤイロという名の人が自分の「ひとり娘」のことでやってきたのです。この人は会堂管理者(監督者、指導者)で自分の家に来てほしいとしきりに(繰り返して)懇願しました(未完了)。なぜなら、彼には12歳になる「ひとり娘」がいて、「死にかけていた」(未完了)からです。
  • 「ひとりの」と訳された「モノゲネース」μονογενης(形容詞)は、 唯一の、独りの、独り(子・息子・娘)という意味です。「ひとり子」はルカの福音書においてはキーワードのひとつです。7章12節の「ナインのやもめのひとり息子」、8章42節の「ヤイロのひとり娘」。9章38節の「てんかんのひとり息子」、さらにはたとえ話にある「失った一匹の羊と一枚の銀貨」が見つかるという喜びの使信、これらはルカ独自のものです。
  • さて、イエスが会堂管理者の切なる懇願にうながされて出かけていく時、群衆が今にも窒息させるほど押し迫ったとあります。この「押し迫る、押しつぶす、窒息しかねない」という未完了の動詞「スンプニゴー」συμπνίγωは、ルカ8章14節にも使われていて、そこでは「この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれてしまう」いばらの中に落ちた種にたとえられています。そうした押し迫った状況の中でひとつの出来事が起こりました。

1. 長血の女のいやし

  • だれかがイエスの背後からイエスの衣のふさにさわったのです。イエスにはそれがわかりました。というのも、力が自分のうちから出て行ったことをイエスが感じられたからです。「さわった」時点で、不思議なことが起こっていたのです。それはイエスの衣にさわったひとりの女性に起こりました。
  • その女性は、12年間もの間、婦人病で苦しみ、治療のために生活費の全部を費やしましても治らず、他にどうすることもできないで苦しんでいました。そのうえ、当時の社会では女性のこうした病気は宗教的に汚れていると考えられ、そのために社会的に疎外されていた人でもあったのです。そんな彼女が最後に一縷の望みをもってイエスに近づき、イエスの衣のふさにさわった時、直ちに(瞬時に)、彼女の血の流出が止まったのです。
  • 「さわった」と訳された原語は「ハプトー」άπτωで、「さわる、つかむ、すがりつく」を意味します。似たような例がルカの6章19節にもあります。公然と「群集のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。」とあります。ここには人々がイエスにさわる姿があります。そして今回の箇所(8章43~48節)では、長血の女がイエスの衣のふさに「さわった」という語彙が4回も出てきます。
  • ちなみに、5章13節ではイエスの方かららい病人(ツァラアト)にさわってきよめ、7章14節ではイエスが自ら近寄って死んだ青年の棺に手をかけて(さわって)その青年を生き返らせています。いずれにしても、「さわる、ふれる」ことで神のいやしの力が流れ出ているのです。このことは神とのかかわりにおいて重要な点です。
  • 48節では、イエスがその女性の信仰を賞賛しているます。最後の頼みの綱、一縷の望みをもって、一途に、イエスにすがりついたその女性の信仰を信仰としてみなしたばかりか、その信仰を「娘よ。あなたの信仰があなたを直した(いやした)のです(現在完了)。」と称賛し、「安心して行きなさい。」と励ましておられます。これは7章49節で、罪深い女に対しても語られたフレーズです。ネストレ27版より以前のギリシャ原文では「しっかりしなさい」という言葉が入っていますが、27版ではこれがなくなっています。安心して「行きなさい」とは、神にある平安(シャローム)のうちに「歩んでいきなさい、生きていきなさい、生活し続けて行きなさい(現在命令)」という意味です。
  • 「あなたの信仰」がという「信仰」は「ピスティス」πίστιςで、「信頼」とも訳せます。彼女の信仰は客観的に見れば頼りないところがあります。しかしどんなにつたない信頼であったとしても、イエスがそれを「あなたの信仰」と受け留め、認めてくださっているのです。
  • 嵐に翻弄されて今にも死にそうだと叫んでいる弟子たちに対してイエスが「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」(8章25節)と叱責しているのに対して、長血の女に対しては「あなたの信仰があなたを直しました」とその信仰を賞賛しているのは皮肉でもあります。この長血の女の信仰の称賛は、一縷の望みをもって、一途にイエスに賭けたところの信仰でした。罪深い女の信仰が彼女を救ったという場合の信仰とは少し意味合いが異なります。彼女の信仰とは自分がすでに多くの罪を赦されているという信仰のゆえに、大胆にイエスの足に高価な香油を注ぐことのできる積極的な愛の行為をもたらした信仰です。百人隊長が賞賛された信仰は権威あることばに対する信頼でした。賞賛された信仰ですが、それぞれ賞賛されている信仰の特徴が異なっているのです。

2. ヤイロの娘のいやしと「メシアの秘密」

  • 三つのことば、すなわち、(1)「信じなさい、そうれば・・」 (2)「死んだのではなく、眠っている」 (3)「霊が戻った」に注目したいと思います。

(1) 「信じなさい、そうれば・・」

  • ネストレ27版以前では「恐れないで、ただ信じ続けなさい(現在命令形)。そうすれば、娘は直りますσῴζω(救われます)(未来形)。」となっていましたが、N27版では、「信じ続けなさい」が、「信じなさい(アオリストの命令形)に変わりました。つまり、はっきりと自分の明確な意志をもって「信じる」ということが強調されています。そうすれば必ず救われるのだとイエスは語っていますが、何を信じるのか、その「信じる」内容についてここでは語られていません。信じることの大切を要請しています。
  • ここで、なぜイエスがペテロとヨハネとヤコブ、それに両親以外の者はだれ一人として家の中に入ることを禁じられたのか。おそらく、これは「十字架と復活」についての啓示がこれらの三人に優先的に啓示するためであったと思われます。ヘルモン山での変貌の出来事の時にも、イエスは特別にペテロとヨハネとヤコブを連れて山に登っておられます。そしてイエスの姿変わりと、モーセとエリヤが現われて、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について一緒に話しているのを見たのである。しかし、彼らはそこで見たことをだれにも話さなかった」とあります(ルカ9:28~36)。「メシアの秘密」です。

(2)「死んだのではなく、眠っているのです」

  • このことばは娘が死んだことで泣き叫んでいる者たちに向かって語られたことばです。ここにもイエスのアブノーマルな、スキャンタラスな言葉があります。人々はそんな発言をするイエスを「あざ笑っていた(未完了)」とあります。
  • これは、やがて起こる「よみがえり」の啓示を暗示しています。弟子たちでさえこの啓示はそう簡単に受け入れられるものではないことをイエスは知っていました。ですから、やがて明らかになる復活の啓示を限られた3人の弟子たちを選んでそれを見させたのでした。しかもそれをだれにも離さないようにと、イエスは3人の弟子と唖然として正気を失っている両親にも釘を刺しています。なぜなら、思うに、この事実を正しく受け止めるには聖霊の助けが必要とするからにほかなりません。これが「メシアの秘密」です。

(3) 霊が戻った

  • イエスは娘の手を取って、叫んで「子どもよ。起きなさい(あるいは、目を覚ましなさい)」と命じました。すると、娘の霊が戻って、娘は直ちに起き上がったとあります。よみがえることをルカは「霊が戻った」と表現しています。逆に言うならは、死とは身体から霊が離れること意味するということです。「霊」ギリシア語では「プニューマ」、ヘブル語では「ルーアッハ」(רוּחַ)です。いずれも、神とのかかわりを持つことが許されている唯一の被造物である人間の存在としての重要な語彙です。
  • その「霊が戻る」ことこそ「よみがえり」であり、「復活」なのです。霊が「戻った(アオリスト)」と訳された「エピストレフォー」έπιστρέφωは「向きを変える」、立ち帰る、戻らせる、引き戻す」という意味であり、ヘブル語の「シューヴ」(שׁוּב)に相当する語彙と言えます。英語では turn, returnと訳されます。
  • 終わりのラッパとともに来られるキリストの再臨の時には、イエスにあって眠った人々(キリストにある死者)がまずよみがえり、次に、生き残っている主にある者たちがみな朽ちることのない身体に瞬時にして変えられて、雲の中に一挙に引き上げられることが約束されているのです(Ⅰテサロニケ4:13~17、Ⅰコリント15:52参照)。死からよみがえるのは、朽ちることのないキリストの霊がその人に戻るからです。よみがりは福音の奥義です。いつの時代においても、多くの者たちがこのことを、イエスに対してそうであったように、愚かなこととしてあざけるのです。聖霊の助けなしには、イエスの復活の事実が意味するその奥義はそう簡単に受け止められることではないということです。説得によって理解できることではないのです。簡単に信じられる人にとっては、むしろ信じられないことが不思議なのですが・・。
  • このようにやがて明確な事実となるイエスの復活は、ただ単に死からよみがえったという事実を越えて、そこには私たちの思いや考えを越えた壮大な神の救いの全貌が隠されているのです。これが「メシアの秘密」と言われるものです。それゆえに、イエスがヤイロの娘のよみがえり(蘇生)の事実を、愚かなこととしてあざける者たちの前では、口外しないようにと諭された理由なのだと受け留めます。

2011.11.10


a:16502 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional