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霊的な突破口を開くための祈り

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B-04. 霊的な突破口を開くための祈り



(1) 霊的な突破口を開くための一定量の<祈りの物質>

  • 霊の領域において、ある事を成すためには、ある一定量の力、いのちの川を流し出さなければならない。偉大な祈りの人でChrist For The Nationsの創立者であるゴードン・リンゼー師はこれを<祈りの物質>と呼んだ。この考え方によれば、私たちの祈りは父なる神の心を動かして何かをしていただくという以上のものであり、私たちから聖霊の実際的な力が解き放たれて何かを達成するというものである。(ダッチ・シーツ著『天と地を揺るがす祈り』)
  • 懐中電灯をつける量と、ある建物や、また町全体を明るくするために必要なエネルギーの容量とは違う。霊の領域においても同じである。神のみこころをなすためには、それぞれに応じた、異なる量の神の力が必要なのである。
  • たとえばマタイ17章14~21節。弟子たちは悪霊を追い出したり、病人をいやしたりすることができた。イエスが彼らにそれを行う力と権威を与えたからである。ところが、気の狂った男の子が連れてこられたときはいやすことができなかった。イエスはこの種のものは祈りと断食によらなければ出て行かないと言われた。
  • 違うことを行うためには、違った量、違ったレベルの力が必要であるというこの原則こそが、多くの祈りが答えられるまでに時間のかかる理由といえる。神に願えばそれでいいというものではなく、霊において、ことを成し遂げるためには、充分な力を流し出す事が必要なのである。
  • 奇蹟を作り出すためには、ある一定量の<祈りの物質>が貯えられなければならないのである。貯えられた祈りは、やがて洪水のように、人の手では到底動かす事のできない障害物さえも動かすようになるのである。

(2) 執拗に祈り続けることで神の力が解放される

①預言者エリヤ

  • 預言者エリヤは、やもめの死んだ息子の所に来た時、自分の体を子どもの体の上に伏せ、顔と顔を合わせて三度祈った(Ⅰ列王17章21節)。どうして3回も祈ったのか。信仰が足りなかったからだろうか。それとも最初のやり方が間違ったのだろうか。その理由は聖書には説明されていないが、3回の祈りが必要だった理由は、エリヤが自分の霊的な胎から少しずつ命、または霊を流し出していたからだと信じる。死人を蘇らせるためには、たくさんの命が必要だったのである。
  • Ⅰ列王18章1節で、主はエリヤに「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう」と言われた。そしてこの章の後半には、雨と雲が現われるまで、エリヤは産みの苦しみをする妊婦の姿勢で7回も熱心に祈ったとある。もし、これが神の計画、神のみこころであるなら、なぜ雨が降るまで7回も祈らなければならなかったのか。その理由は、充分な祈りをささげ終えるまで、祈り続けなければならなかったというのが、最も納得できる論理的な説明である。とりなしの祈りによって、充分な力が解放されるまで、エリヤは祈り続けなければならなかったのである。

②預言者ダニエル

  • 預言者ダニエルも、毎日忠実に祈ることで、霊の領域で力を解放した。霊の世界で悪霊の抵抗を壊すほどの力が解放されるまでは、神は答えを携えた天使を送ることはできなかったのである。もっとも、神の一言で、地獄のすべての悪霊を打ち破ることは可能であるが、しかし、神が人を通して働くという原則を忘れてはならない。人のとりなしの祈りは突破口を開く鍵になる。突破口を開くまでイエスはゲッセマネで3時間も祈られた。そしてこの間、霊の世界で力が解放され、それによって突破口が開かれたのである。

③使徒パウロ

  • 使徒パウロはエペソ人への手紙でこう祈っている。
    • 「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(3章21節)。
  • このみことばで大切なことは、「私たちのうちに働く力によって」という箇所である。ある訳では「働く力(の量)によって」とある。「量(カタ)」は「分け与える」という意味もある。つまり、私たちが分け与えた力の量に応じて、神はことをなしてくださるのである。私たちは自分のうちにある神の力を、祈りを通して継続的に解き放たなければならない。
  • ヤコブ5章16節には「義人の祈りは働くと、大きな力あります」とある。詳訳聖書では「義人の熱心な(心からの、たゆまない)祈りは、偉大な力(爆発的に働く力)を手に入れます」とある。この《たゆまない》ということばに注目しよう。私たちは神の力を解放しなければならないのである。私の心の奥底から生ける水が流れ出るようにしなければならない。神の力を解き放たなければならない。解放して、解放し、さらに繰り返し、解放しなければならないのである。
  • このようにして私たちの祈りは集め蓄えられる。聖書によれば、天国には私たちの祈りを貯めておくためのたくさんの器がある。私たちの祈りをちょうど良い時まで保存する器を神は持っておられるのである。

④24人の長老たち

  • 「・・24人の長老は、おのおの、香のいっぱいはいった金の鉢をもって」(黙示録5章8節) 「金の香炉、たくさんの香」「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに」(黙示録8章3~5節)
  • この箇所によれば、神はご自分のもっとも良い時に、あるいは、祈りが充分集まったときに力を解放し、器をもって、祭壇の火と混ぜられる。主がシナイ山で降らせた火、カルメル山でエリヤのいけにえを焼き尽くした火、ペンテコステに降った火、敵をも滅ぼす同じ全能の神の火を、私たちの器の中であなたの祈りと混ぜられる。そして地にそれを注がれる。稲妻が光り、雷鳴がとどろき、地震が起こる。霊の世界でものすごいことが起こり、目で見える世界に影響を与えるのである。パウロとシラスが真夜中の牢の中で賛美をしているときに起こった地震はこれに違いない。賛美と祈りが立ち昇り、神がそれに油を注ぎ、器がいっぱいになったときに、それを注ぎだされたのである。地は文字通り揺り動かされ、牢の扉は開き、鎖は解かれた。その結果、アジアで最初の回心者がピリピで新しい命を得ることができたのである。
  • 残念なことに、私たちの器にはまだその必要を満たすだけの祈りが入っていないのかもしれない。日本の上に神がその御力を現わしてくださるように・・


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