預言的賛美
〔D〕ルカ独自の記事
1. 四つの預言的賛美とその特徴
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(1) なにゆえに預言的なのか
- 預言的賛美とは、これからイエスによってなされることが、すでになされてしまったかのように記されているからである。つまり、未来形としてではなく、全部成就した過去形で語られている。完成から祈りと賛美が始まっているのである。しかも、そうした内容は人々に喜びと希望を与えている。
- 四つの預言的賛美は、すべて歌われたものではなく、語られた賛美である。
〔1〕マリヤの賛歌 (マニフィカート)
- 1章
46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
- 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(1:35)と御使いに語られたマリヤの賛歌は、純粋な賛美といえる。願いごとはなく、神がマリヤのためにしてくださった神のあわれみのわざに対する賛美だけがしるされている。そのあわれみはマリヤのみならず、すべての時代において「主を恐れかしこむ者」の上に注がれるのである。その意味においてこの賛歌は預言的である。
- 主の来臨による三つの変化
①心の思いの高ぶった者を追い散らすという変化。
②権力のある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げるという変化
③飢えている者を良いもので満たし、富んでいるものを空腹のまま帰らせるという変化
このように、神の支配するところには逆転の恵みが見られる。
〔2〕ザカリヤの賛歌 (ベネディクトゥス)
- 1章
67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、
69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。
71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。
72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、
73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、
74 われらを敵の手から救い出し、
75 われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。
76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、
77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
- この預言の特徴の第一は、「顧みて」、「贖いをなし」、「立てられた」とあるように、救いにおける神の主権である。すべてのことが神からはじまり、神により、神へと至るという事実に目を向けさせようとしている。
- 第二の特徴は、この救いはわれらの敵からの解放であることである。敵とは、神による救いを妨げるサタンとその勢力全般を指すと考えられる。また、1:77では、救いは「罪の赦し」というより根源的なものへと言い換えられている。
- 第三の特徴は、救いの目的が生涯のすべての日において「主の御前に仕えること」、すなわち神への真の礼拝者となることである。
〔3〕 天軍賛歌 (グロリア・イン・エクシェルシス)
- 2章
13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
- イエス誕生の告知が主の御使いによって羊飼いたちに与えられるや否や、天に賛美の大コーラスが響きわたった。 その賛美の理由は二つある。一つは天において啓示された神の栄光のゆえに、もう一つは地上における神のわざのゆえに、である。
- 御使いたちの務めは神の使信の伝達と神を賛美することである。天において多くの御使いは大声で「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」(黙示5:12)と賛美している。
- 「平和」とは、イエスが罪からの解放によって成就する完全な救いを意味する。共観福音書において「平和」という語はルカで最も頻繁に使われている(13回)。ザカリヤの賛歌にも、シメオンの賛歌にも登場する。
〔4〕シメオンの賛歌 (ヌンク・デュミティス)
- 2章
28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。
31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。
35 「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れまた、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
36 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
- シメオンが聖霊に満たされて歌った(語った)預言的賛美。ここには二つの預言的な内容がある。
- 第一の預言は「救いの普遍性」ということである。神の救いは神の民イスラエルのみならず、異邦人に対しても備えられた啓示の光であった。これは当時のユダヤ人には想像だにできないことであり、しかも受け入れがたいことであった。
- 第二の預言は「イエスが多くの人々の反抗のしるしとなる」ということである。事実、イエスは神の民によって憎まれ、疎外され、殺された。なぜ、そのような反抗を受けたのか。それは「多くの人の心の思いが表わされた」からである。人はこのイエスに対する態度によって「倒れ」もし、「立ち上がり」もする。正にこのイエスは人生の試金石である。聖書は「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石。尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることはない」(Ⅰペテロ2章6節)。主イエスこそ私たちの唯一の望みである。
(2) 預言的賛美の根底に流れる神の「あわれみ」という概念
①神の道徳的属性として「神の善」(Goodness)がある。神の善は、一般的に「神の慈愛」(いつくしみ)と訳されている。この場合、神の慈愛(いつくしみ)という概念は総称的な概念であり、それは以下のように、その対象の性質や状態によって異なっている。〔新キリスト教辞典「神の属性」の項参照〕
神の善 (Goodness)
被造物一般に対して向けられたとき | 鳥が養われ、野の花が美しく装われ、といった形であらわされる。 |
人に対して向けられたとき | 神の愛 (Love) |
神の恵み (Grace) | 神の愛が受けるに価しない者に示される場合に使われる。恵みとは、要求する権利のない者に価なしに示される神の好意である。 |
神のあわれみ (Mercy) | 罪のゆえに悲惨な状況にある者に対して示される具体的な助けが神のあわれみである。イエスは彼らの現実を見て「かわいそうに思い」その状況からしばしば助け出された。 |
神の忍耐 (Longsuffering) | これも神の慈愛、愛のもうひとつの面である。戒めや警告がなされているにもかかわらず、悔い改めることなく罪に中にとどまり続けている人に対して示されるものである。これは刑罰の延期あるいは猶予という形で表されている。 |
②神のあわれみとは、窮状にある人々に対する同情だけでなく、具体的行動が伴った神の真実な愛である。主イエスは、病人や悪霊につかれた者、取税人、罪人などを見てあわれまれ、かわいそうに思われた。またあわれみを求める人々の声に耳を傾けられ、彼らをいやし、助けられた。そしてこのキリストのあわれみのきわみは、十字架の贖いの死において最も明らかに示されている。そして神はご自分のあわれみを示すことによって、人もまたあわれみ深くあることを求めておられる。ルカ6章36節参照。
神のあわれみ | = 同 情 + 具体的行動 |
③神のあわれみの付記的事柄として、新約聖書の出来事において「かわいそうに思い」と訳されていることばがある。それはギリシャ語でスブラングニゾマイ(σπλαγχνιζομαι)である。以下の箇所をチェックしてみよう。そしてこのことばが出てきたあとに、どんなことが起こっているかをチャートにしてまとめてみるとよい。このことばが出てきた後には、必ず何かが起こっている。
ルカ福音書7章13節、10章33節、15章20節。マタイ福音書9章36節、15章32節、18章27節、20章34節。