0. はじめに
歴史書(1)の目次
0. はじめに
| 次へ
(1)
列王記はその書名が示すように、ダビデの後継者ソロモンから南ユダ王国と北イスラエル王国における歴代の王の治世を記録している。それらは、400年弱の期間に及んでおり、イスラエル王国の衰退の物語である。南ユダ王国には20人の王が、また北イスラエル王国には19人の王が登場する。
⇒【図1】【図2】を参照。
(2)
ソロモンの治世中に王国はその絶頂に達する。その王国は父ダビデから引き継いだものの十倍にも及んだ。しかしソロモンの死とともに、王制はすでに神がそれを通してご自身の<聖>を表わす媒体ではなくなっていた。この時から、エリヤをはじめとする預言者の時代が始まるのである。イスラエルの王制の理念、つまり「神こそ真の王であり、人間の王はあくまでも神の代理者にすぎない」とする理念が崩壊しつつあったときに、それに対して断固 No!と叫んだのが預言者たちであった。彼らは命をかけてイスラエルの王制の理念を語り、王による国の私物化は亡国を招くことを警告した。その預言者たちの歴史観(申命記的歴史観 ※脚注1)を骨格として記されたのが「列王記」である。
(3)
サムエル記の最後はダビデの人口調査とそれによる神のさばきの出来事が記されている。士師記の時代にはイスラエルに常備軍はなかった。聖戦が布告されると戦いにふさわしい者を士師が諸部族から召集した。ところが、王国時代には、いつでも動員できる軍隊が必要となってきた。最初の王サウルは傭兵を募って編成した(Ⅰサム14章52節)。ダビデもまた同じことをしたが、より王に直属した特殊な部隊を編成した。サウルもダビデも歩兵隊しかもっていなかった。戦線を拡大していたダビデは常に敵の戦車と遭遇した。彼は戦いに戦車を用いたことは一度もなかったが、その確信が揺れ動くさまが垣間見られる。Ⅱサムエル8章4節には「・・百頭を残して、そのほかはすべて腱を切って」とある。こうして、妥協のくさびが打ち込まれた。こうして、イスラエルの中でも戦車が用いられるようになってしまった。確かに最初に用いたのはダビデではなかった。彼の息子たち、アブシャロムとアドニヤが、それもダビデに謀反を起した戦いの中で用いられた(Ⅱサムエル15章1節、Ⅰ列王記1章5節)。イスラエルが戦車隊を完全に採用するのは。ダビデの後継者ソロモンの時代になってからである。それ以降の王国時代においては、イスラエルは隣国の軍備に歩調を合せることになる。「戦いにおける世俗化」が起こってしまったのである。ダビデの人口調査はまさに戦いにおけるこの世俗化、つまり制度的な軍隊の導入―への動機が潜んでいたのである。それは神こそ勝利をもたらすという信仰の喪失を意味した。
※脚注1
- 申命記に神が王制に語っている箇所がある。それは17章14~20節である。しかし、ここにある主の王制の構想は「他の国々」の王とは全く異なっていた。たとえば、王は律法を熟知した者でなければならず、主を畏れ、その教えに従うことができるように、律法を自分のかたわらにいつも置いて、生きている限り読み返さなければならなかった。さらに、王が主とその道から離れるように誘惑を受けるのは避けられないだろうということで、それに対する安全策が講じられている。それによれば、王は三つのものを増やすことを禁じられた。
第一は、馬を増やすこと(これは優れた装備を施した常備軍を置くこと)、
第二は、妻を増やすこと(これは近隣の王国と同盟関係を結ぶこと)、
第三は、金銀をふやすことである。
- もしこれらの規制に王が従うならば、王は「同胞を見下して高ぶること」がないはずである。このような条件のもとで、イスラエルは王を持つことが許されるという規定である。それは他の国々とはかなり異なった国であり、平等平和主義的な、反軍国主義的な王国となるはずであった。このような申命記の規定に立った歴史の解釈が申命記的歴史観といえる。
a:3719 t:1 y:2