****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

08.「ヨハネの福音書5章の『五つのささげ物のしるし』」


08.「ヨハネの福音書5章の『五つのささげ物のしるし』」

ベレーシート

●ヨハネの福音書を学んでいますが、その中心テーマは「いのち」と「建て上げ」です。「エデンの園」から「メシア王国」に至るまで、神のご計画は一貫しています。それは「神の住まいを建て上げる」ことです。そのために、「いのち」が重要であることをヨハネは語っています。「永遠のいのち」は共観福音書が合わせて8回であるのに対して、ヨハネの福音書では18回、ヨハネの手紙(第一)では6回、つまりヨハネ文書では合わせると24回も使われています。この「いのち」は「ゾーエー」(ζωή)と言われるもので、たましいの「いのち」(プシュケー:ψυχή)とは異なるものです。神の家や花嫁の「建て上げ」のために、優先すべきは「いのち」(ζωή)の事柄です。その「いのち」は御子イェシュアのうちにあるものです。イェシュアだけが私たちにいのちを与えることが出来ます。彼は御父とともに働かれています(ヨハネ5:17~20)。イェシュアは人にいのちをもたらし、またさばく権威(権能)をも与えられています。それゆえに、キリストに置き換わるものがあってはならないのです。キリスト以外にいのちを与えることはできないからです。

1. いのちを与えるイェシュア

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章1~2、5, 8~18節
1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。
群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。
「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた(未完了形)。
イエスが、安息日にこのようなこと(複数)をしておられた(未完了形)からである。
17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった(未完了形)。イエスが安息日を破っていた(未完了形)だけでなく、神をご自分の父と呼び(未完了形)、ご自分を神と等しくされたからである。


●前回、ヨハネ5章から、イェシュアが38年もの間病気にかかっている人を癒やしたことを学びました。癒やされた人は喜んで床を運びましたが、その日が安息日であったことがパリサイ派のユダヤ人たちの間で問題視されました。ユダヤ人たちは「今日は安息日だ。床を取り上げてはいけない」と彼に告げたのです。誰が何の権威をもって「安息日に、床を取り上げてはいけない」と定めたのでしょうか。それはユダヤ人の指導者ラビ(=先生)です。ユダヤ人にとってラビの教えは絶対的な権威を持っていたからです。そのラビの権威に従わない者は、ユダヤ人の共同体を揺るがす存在とみなされたのです。ちなみにサウロ(後のパウロ)は、パリサイ派のラビであるガマリエル(使徒5:34)の門下でした。イェシュアは彼らの安息日の規定を繰り返し何度も破っていたようです。さらにイェシュアが神をご自分の父と呼び続け(未完了形)、またご自分を神と等しくされたことも、彼らがイェシュアを迫害し殺そうとする要因となりました。

●「安息日」「食物規定」「割礼」の三つは、ユダヤ人のアイデンティティそのものであり、ユダヤ人であることを知らしめる重要なしるしです。ですからそれを破ることは、その共同体から断ち切られるほどのことなのです。しかし、イェシュアがしたことは御国の民を建て上げるためであり、その民に「いのちを与えること」でした。

●イェシュアは癒やされた人に対して「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない」と言いました。病気と罪を結びつけることは当時の常識でした。ラビたちの言い伝えでも、「いかなる苦しみも罪がなければ存在しない」とか、「病人は、神がそのすべての罪を赦すまでは、その病から立ち上がることはできない」と教えられていたようです。それを裏付ける出来事として「中風のいやし」(マルコ2章)があります。

【新改訳2017】マルコの福音書2章5~12節
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
6 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
8 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
11 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。

●イェシュアが中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたことが、律法学者たちに物議を醸しました。なぜなら罪を赦すのは神しかいないからです。そこでイェシュアは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言って、中風の人に「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」と言うと、彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行ったのです。「あなたの罪は赦された」と言うのは簡単ですが、「起きて、寝床をたたんで歩け」というのは神わざです。もし後者が実行されたならば、前者の「罪は赦された」が含まれることになります。この出来事によって、イェシュアは「人の子が地上において罪を赦す権威をもっていること」を示されたのでした。その出来事の前(マルコ1:40~45)には「ツァラアトのきよめ」の出来事があります。これらの中に、「罪のきよめのささげ物」と「代償のささげ物」の成就があります。「罪のきよめ」とは「原罪のきよめ」を意味し、「代償」とは数々の罪の赦しを意味します。

●ヨハネ5章には、共観福音書のように「ツァラアトのきよめ」も「中風の人の癒やし」もありませんが、べテスダの池の五つの回廊にいたすべての病人を、「38年も病気にかかっている人」が代表していると言えます。イェシュアは彼に「霊であり、いのち」のことば(=「起きて床を取り上げ、歩きなさい」)をかけて癒やし、いのちを与えました。これは生きた神のことばを象徴する「穀物のささげ物」の成就です。このようなことが出来るのはイェシュア以外にはいません。ユダヤ教はさまざまな律法を守らせようとはしますが、それを実現に至らせるいのちを与えることはできません。あらゆる宗教も然りです。サタンはさまざまな宗教を用いて人を殺すように仕向けます(律法主義、宗教戦争)。しかし、いのちを与える方はイェシュアしかいません。イェシュアすなわち「いのち」に置き換わるものは他にないのです。イェシュアこそすべてなのです。しかしこのことが、イェシュアを迫害し、殺すようにさせる要因となるのです。

2. 「五つのささげ物」となられたイェシュア

●ユダヤ教におけるラビは宗教的指導者を指します。しかもその存在は偉大です。その立場はカトリックの教皇に匹敵します。ですから、ラビの権威の下に定められた「安息日の規定」は、ユダヤ人にとっては絶対なのです。しかしイェシュアはその規定をあえて破りました。なぜなら、その規定には神の「いのち」がなかったからです。イェシュアはいのちを回復するために、「まことに、まことに、あなたがたに言います」(アーメン、アーメン、レゴー・ヒューミン: Ἀμὴν ἀμὴν λέγω ὑμῖν)というフレーズを用いて語っています。これは天と地がつながって、地にいのちをもたらす(回復する)偉大なフレーズです。「天と地」は、「御父と人となられた御子イェシュア」、および「神と人」とのかかわりを意味します。5章だけを見るなら、このフレーズは以下のように、3回登場します。

① 19節

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

●「父と子は一つである」ことが、いのちを与える権威の土台となっています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章20~23節
20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。
21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

●「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです」という言及は、子であるイェシュアが「全焼のささげ物」となられたことを意味します。それは神への「全き謙遜」を意味します。ヨハネの福音書にはこのイェシュアの謙遜を示すことばがあふれています(5:19, 30, 41, 6:38, 7:16, 28, 8:42, 54, 10:30・・・)。神であるにもかかわらず、イェシュアは人として御父の手袋となられたのです。これが完全な神のしもべの姿なのです。

②24節

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。


③25節

まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

●24節と25節で共通していることは、イェシュアのことばを「聞いて」ということです。死人が神の子であるイェシュアのことば(声)を「聞く」とあります。「聞いて」とは、イェシュアが御父のことばを「語っている」ことを前提としています。イェシュアが話す数々のことばは、「霊であり、いのち」です(ヨハネ6:63)。これが「穀物のささげ物」です。前述の「病気の人の癒やし」は「罪のきよめのささげ物」であり、「代償のささげ物」です。癒やしによる喜び、死からいのちに生きる喜びは「交わりのいけにえ」です。それを味わうためには、イェシュアが「全焼のささげ物」と「穀物のささげ物」、「罪のきよめのささげ物」と「代償のささげ物」とならなければならないのです。ヨハネの福音書はそのすべてが成就したかたちで書き記されているのです。

●25節の「死人が神の子の声を聞く時が来ます」の「死人」とは、「霊において死んでいる人」のことです。その死人の霊の残滓(ざんし)が、神の子であるイェシュアの声を聞くことで「生きる」ようになるのです。「今がその時」(4:23, 5:25)とはヨハネ特有の表現です。「今」とは「プレーロー」の時であり、イェシュアがいのちを与える霊となって人の霊(機能不全=死)を再生し、内住してくださるその時を指しています。これを語った時点ではまだですが、ヨハネの福音書が復活の視点から記されているゆえにこのような表現になっています。しかし、28~29節は、異なる内容です。

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章28~29節
28 ・・・墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
29 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

●25節では「死人」でしたが、28節では「墓の中にいる者」となっています。「墓の中にいる者」とは「肉体的に死んで墓に葬られている人たち」を言います。「そのとき」とは、善を行った者(=イェシュアを信じた者)はキリストの再臨(携挙)の時に死からよみがえって、いのちを受けるために墓から出てきます。反対に、悪を行った者(=イェシュアを信じなかった者)は千年王国の終わりの時によみがえり、「大きな白い御座」でさばかれ、永遠に罪定めされるのです(黙示20:5, 12)。

●ヨハネの福音書5章には「いのち」(「ゾーエー」ζωή)という語彙が7回(24,24,26,26,29,39,40)、「いのちを与える」(ゾーオポイエオー:ζῳοποιέω)という語彙が2回(21,21)記されています。イェシュアによって「いのちを受ける」とはどういうことでしょうか。それは「新しい契約」(エレミヤ31:31~34)にあずかることを意味します。

【新改訳2017】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─主のことば─。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ─主のことば─。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」


3.「聖書」はイェシュアを証言するもの

●ヨハネの福音書 5章30~47節では、イェシュアは自分を証しするものとして四つを挙げています。第一は「御父」、第二は「ヨハネ」、第三は「聖書」、第四は「モーセ」です。今回は第三の「聖書」を取り上げます。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 5章39節
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。

●「聖書(旧約)」は「イェシュアについて証ししているもの」です。旧約聖書の至るところにイェシュアが証しされています。また同時に、イェシュアが語った「御国の福音」も証しされているのです。

(1)「タナフ」(ユダヤ人の聖書・旧約聖書)の各巻の冒頭にある「イェシュアの証し」

①モーセ五書「トーラー」(תּוֹרָה)の冒頭である創世記の1章1節の「はじめ」(「レーシート」רֵאשִׁית)
に「死からよみがえられた初穂であるイェシュア」が証しされています。
②預言者「ネヴィーイーム」(נְבִיאִים)の冒頭にあるヨシュア記の「ヨシュア」は、神聖四文字の省略形とイェシュアの合成語で「主は救い」(イェホーシュア:יְהוֹשֻׁעַ)を意味します。モーセに代わってイスラエルの民をカナンの地へと導くヨシュアに、イェシュアが証しされています。
③聖文書「ケトゥーヴィーム」(כְּתוּבִים)の冒頭にある詩篇の1篇の「アシュレー・ハーイーシュ」、「幸いなことよ、その人」の「ハーイーシュ」(הָאִישׁ)に、イェシュアが証しされています。

(2) 出エジプト後の最初の試練における「イェシュアの証し」と「御国の福音の証し」

【新改訳2017】出エジプト記15章22~27節
22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。
23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
25 モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、
26 そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」
27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した

●この出来事はイスラエルの民が出エジプトした三日後の出来事です。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかったとあります。「マラ」(מָרָה)の語源は「マーラル」(מָרַר)で「苦しむ、憎む、泣き叫ぶ」という意味です。民がモーセに不平を言った時に、主はモーセに「一本の木」を「示されました」。「一本の木」はイェシュアを表しています。「示す」は「ヤーラー」(יָרָה)で「投げる、射る、示す、教える」を意味し、そこから名詞の「トーラー」(תּוֹרָה)が派生します。一本の木を水の中に「投げ込む」は「遣わす」を意味する「シャーラハ」(שָׁלַח)で、イェシュアの来臨を意味します。そのことで「苦い水」が「甘い水」となるのです。この試みを通して、主は民に対して「掟」と「定め」を授けられました。「掟」とは「ホーク」(חֹק)で、主の祈りの「日ごとの糧」の「日ごと」を意味し、神の民が日々求めるべきものが何かを示しています。また「定め」は「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)で、「神の国の支配・統治の有様」を示唆しています。事実、この先の部分を見ると分かるように、神の「掟」と「定め」を信じるなら、エジプトで経験した病気にならず、癒やされるのです。そして、主の目的はイスラエルの民を「エリム」へと導くことだったことが分かります。「エリム」(אֵילִם)は「御国」の象徴です。なぜならそこには「十二の水の泉」と「七十本のなつめ椰子の木」があったからです。12という数も70(7の倍数)という数も、神にとってこの上なき喜びの極みを表します。神である主はイスラエルの民を最初からそこに導こうとされていたことが証しされています。このように、聖書は神のご計画である「御国」を預言的、奥義的、重層的に啓示し、証ししているのだということが分かります。

最後に、預言書のゼカリヤ書から神のご計画を学びたいと思います。昨年の2023年10月7日、ハマスによるユダヤ人に対する大虐殺が起こりました。これは「シムハット・トーラー」の日に起こりました。「シムハット・トーラー」とは「トーラーの喜び」という意味で、輪になって歌い踊る祭りです。通常多くの正統派のユダヤ人は兵役に就くことを拒否し、イスラエルではそれが認められているようです。ところがこの日に起こったハマスによる大虐殺によって、正統派のユダヤ人の多くが兵役に志願し、その人数が余りにも多かったために、志願が中止されたという経緯があります。この出来事について、正統派の人でニホナ・ユダヤ学院講師である「懸けはシオン」のエルサレム在住日本語話者のユダヤ人が、ゼカリヤ書12章の成就として解釈して、You Tubeに掲載しています。そこでは、10/7をユダヤ最後の戦争として解釈して、ゼカリヤ書12章1~12節を説明しています。ところが問題点は、10節の「彼らが突き刺した者」「彼らは突き刺された者」と解釈し、このたび大虐殺された千人余りのユダヤ人のことだとしている点です。果たしてその解釈は妥当なのでしょうか

【新改訳2017】ゼカリヤ書12章10節
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。

【聖書協会共同訳】ゼカリヤ書12章10節
私はダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが刺し貫いた者のことで私を見て、独り子の死を嘆くように嘆き、初子の死を悼むように悼む。

●この10節を、イェシュアをメシアとして信じていないユダヤ人が解釈するとどうなるのかを知りました。おそらくこの解釈は正統的なラビの解釈であると思われます。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ」という預言が今回のイスラエルの住民に降りかかったとし、そのことが、正統派の多くのユダヤ人が兵役に就こうとしたことに表されたとしています。10節の彼らが嘆き、激しく泣いているのは、ハマスによって「突き刺された」者のためだと解釈しているのです。この箇所を原文で見てみましょう。

画像の説明

原文直訳
わたし(=主)は注いだ。
ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと数々の嘆願の霊を。
彼らはわたしを、彼らが突き刺した者を仰ぎ見る。
彼らは嘆く。ひとり子を失って嘆くかのように。
また彼らは泣き叫ぶ。その者のために。
長子を失って泣き叫ぶように。

①「わたし」は「主」、「彼ら」は「ダビデの家とエルサレムの住民」で「イスラエルの残りの者」を指します。
②「恵みと嘆願の霊」=「ルーアッハ・ヘーン・ヴェタハヌーニーム」(רוּחַ חֵן וְתַחֲנוּנִים)。「タハヌーニーム」は「数々の嘆願」を意味します。その語源は「ハーナン」(חָנַן)で「あわれむ」です。
③「突き刺した」を意味する「ダーカル」(דָּקַר)の3人称複数完了休止形で「ダーカールー」(דָּקָרוּ)。もし単なる3人称複数完了形ならば「ダーケルー」(דָּקְרוּ)となります。決して「彼らは突き刺された」という受動の意味にはなりません。
④「激しく泣く」は「マーラル」(מָרַר)の使役形不定詞で「泣き叫ぶこと」を意味します。これはペテロがイェシュアを三度裏切った後に主のことばを思い出して、激しく泣いた」という出来事とつながります(マタイ26:75)。このペテロの「激しく泣いた」は、終わりの日の「イスラエルの残りの者」の悔い改めを預言的に映し出す行為と言えます。

●このように、イェシュアをメシアとして信じていないなら無理な解釈となることを見ました。イェシュアが語ったように「聖書はわたしについて証ししているもの」ということを、より多く、より正しく見出す者となるように祈りたいと思います。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2024.5.12
a:1370 t:1 y:4

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