09.「ヨハネの福音書5章の『さらなる四つのしるし』」
09.「ヨハネの福音書5章の『さらなる四つのしるし』」
ベレーシート
●ヨハネの福音書5章にはまだ隠された重要なエキスがあります。その一つは、イェシュアが証しする「父と子の一体性」です。そしてさらにイェシュアを証しする「四つのしるし」があります。そのしるしが何を意味するかを取り上げます。
1. イェシュアによる「父と子の一体性」の論証
【新改訳2017】ヨハネの福音書5章18節
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
●ベテスダの池で、イェシュアが安息日に「38年も病気の人(足の不自由な人)」に「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と言い、癒やしました。このことについてイェシュアは、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」とご自分を弁護しています。しかしこのことが、ユダヤ人たちをしてイェシュアを殺そうとさせたのです。原文では「殺そうとますます懸命になっていった(未完了形)」となっています。安息日のことだけではありません。「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということも、その理由です。それは私たちにとってあまりに当然のことのように思えて、19~47節に至る「父と子の一体性」の論証に関心を抱く人は少ないかもしれません。しかしこの箇所は他の福音書には見出せないほど、イェシュアが語った「父と子の一体性」が扱われていますので、そのことを取り上げたいと思います。
19節と30節は序文と結論に相当します。ほとんど同じことばで表現されています。この間に「父と子の一体性」の詳しい説明がなされています。
19節
イエスは彼らに答えて言われた。まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。
30節
わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。
●20節には、「父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」とあり、「これよりも大きなわざ」が、21~23節で説明されます。その「大きなわざ」とは二つで、「いのちを与える」ことと、「すべてをさばく」ことです。24節以降はこの二つのことをさらに詳しく説明する流れとなっています。
●ところで、19~23節には、ある特徴的なことばが6回も繰り返されています。それは「子」という語彙です。ギリシア語では冠詞付きの「ホ・ヒュイオス」(ὁ υἱὸς)です。ヘブル語では「ハッベーン」(הַבֵּן)です。イェシュアがご自分のことを「子」と呼ぶのは、ヨハネの福音書のみです。
【新改訳2017】ヨハネの福音書5章19~23節
19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子(ὁ υἱὸς)は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子(ὁ υἱὸς)も同様に行うのです。
20 それは、父が子(ὁ υἱὸς)を愛し、ご自分がすることをすべて、子(原文=彼)にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子(原文=彼)にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。
21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子(ὁ υἱὸς)もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子(ὁ υἱὸς)に委ねられました。
23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子(ὁ υἱὸς)を敬うようになるためです。子(ὁ υἱὸς)を敬わない者は、子(原文=彼)を遣わされた父も敬いません。※訳文では「子」と訳されているのは10回ですが、そのうち「ホ・ヒュイオス」(ὁ υἱὸς)は7回で、後の3回は代名詞の「彼」が使われています。また「父」と訳された冠詞付きの「ホ・パテール」ὁ πατὴρ(ヘブル語は「ハーアーヴ」הָאָב)も7回です。
●イェシュアはご自分のことを表すのに「人の子」「神の子」と呼んでいます。しかし5章19~23節では「子」(7回)と呼んでいます。ヨハネでは他に6回あります(5:26, 6:40, 8:35,36, 14:13, 17:1)。
●「父と子の一体性」を、以下の三つの文で代表することができます。
①19節前半
子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。
②19節後半
すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。
③20節前半
父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。
●①の「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません」とはどういうことでしょうか。旧約の預言者たちは、神から啓示されたことだけを(=付け加えたり、省いたりせずに)語る人です。ところが父のふところにおられる子であるイェシュアはそれ以上です。つまり「父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません」とあります。ことばだけでなく、することも含んでいます。「自分から何も行うことはできない」の「できない」というのは、「行わない」という意志の表れです。②の「すべて父がなさることを、子も同様に行う」とは、似たことを行うのではなく、文字通り同じことを同じ仕方で行うということを意味しています。③は②の逆方向の表現です。②と③には「すべて」が共通しています。そのようなかかわりは人間の世界ではあり得ません。これが神のユニークなかかわり、すなわち「父と子の一体性」なのです。私たちはこの事実を、驚きをもって受けとめたいと思います。
2.「父と子の一体性」を証しする「四つのしるし」
【新改訳2017】ヨハネの福音書5章31~35節
31 もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。
32 わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。
そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。
●イェシュアが語る「父と子の一体性」は30節で終わります。31節以降には「子」について証しする「四つのしるし」を列挙しています。その四つとは「(バプテスマの)ヨハネ」「父」「聖書」「モーセ」です。それでも信じないユダヤ人の不信仰をイェシュアは糾弾しています。

(1) 「バプテスマのヨハネ」の証し
【新改訳2017】ヨハネの福音書5章33~35節
33 あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。
34 わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。
35 ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。
●ヨハネはイェシュアを証しするためだけに、神から遣わされた人です。
【新改訳2017】ヨハネの福音書1章6~9節
6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。
9 すべての人を照らすそのまことの光(完全なる光=イェシュア)が、世に来ようとしていた。
●ヨハネは「燃えて輝くともしび」でしたが、イェシュアはすべての人を照らす「まことの光」です。
【新改訳2017】ヨハネの福音書1章26~27、29~34節
26 ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
27 その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」
29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。
31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。
33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
34 私はそれを(原文にはありません)見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」
●26節に「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」とあります。「あなたがたの知らない方」とは「隠されている」ということです。イザヤ49章2節に「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された」とあります。それは神の時が来るまでは「隠されている」ということです。33節の「聖霊によってバプテスマを授ける者」とは、死から復活されたイェシュアが「いのちを与える霊」となられて、人の霊を再生してその中に内住されるだけでなく、昇天して御座に着座された方として、そこから「力としての聖霊の満たし」(使徒1:8、2:4)を与えられる方であることを預言的に証ししています。ここでは、ヨハネ自身の働きをはるかに超えた真の「バプテスマ」を授ける方が誰であるかを証言しているのです。その意味で、ヨハネは「私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」(27節)と言っているのです。
(2) 「父」の証し
【新改訳2017】ヨハネの福音書5章36~38節
36 しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。
わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。
37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。
38 また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。
●イェシュアの公生涯で「父」の声が直接的に語られた場面があります。それはイェシュアの洗礼の時と、ヘルモン山で変貌された時です。
①【新改訳2017】マタイの福音書3章16~17節
16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」②【新改訳2017】マタイの福音書17章5節
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
●いずれも「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」とあります。父にとって唯一愛しているのは「子」だけです。「子」だけが父の喜びの対象なのです。私たちが「子の中へと信じる=子に身を避ける=子を信頼する」なら、父の愛を受けることになるのです。ですから、父は「これ(子)に聞け」と語っています。なぜなら、父と子は一体だからです。
●特に、父が語る「これに聞け(Listen Him)」は重要です。これは「シェマ・イスラエル」(申命記6:4)の預言的奥義を意味するからです。イェシュアの語ったことばとは何でしょうか。それは徹頭徹尾、「天の御国」(神の国)について、つまり「御国の福音」でした(マタイ4:23)。しかもそれをたとえで語っています。分かりやすくするためではありません。たとえに隠された真意を自ら尋ね求めさせるためです。弟子たちもたとえの意味をイェシュアに尋ねました。尋ね求めることがなければ、その真意である天の御国の奥義は閉ざされてしまいます。これが神の知恵です。またイェシュアがなされた数多くの奇蹟も、御国が来るとこのようになるというデモンストレーションでした。ですからイェシュアのことばとわざが、父が子を遣わされたことを証ししていることになるのです。
(3) 「聖書」の証し
【新改訳2017】ヨハネの福音書5章39~40節
39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
●39節にある「あなたがた」とはユダヤの宗教指導者のことです。ここにユダヤ教のラビとイェシュアの聖書観の違いを見ることが出来ます。ラビ・ヒエルという人の言葉に「律法の学びが多ければ多いほど、いのちも増す。学びが増えるほど、知恵も増える。・・・もし人が名声を得たなら、なにがしかのものを身に着けたのであり、律法のことばを身に着けたなら、来世のいのちを身に着けたのである」とあり、そのような考えがミシュナーの中にあるようです。
※「ミシュナー」とは、ユダヤ教の指導者ラビ(先生)によって行われたトーラーに関する註解や議論(口伝律法)を集成した文書のことです。
●ラビによれば、聖書そのものの中に永遠のいのちがあって、聖書を調べれば調べるほど、自動的に、永遠のいのちも身に着くという考えがあったようです。聖書そのものに永遠のいのちを与える力があると考えたゆえに、彼らは聖書を「調べていた」(研究していた、何かを探すために神経質に文字をほじくり出していた)のです。それに引き換え、イェシュアの聖書観は聖書それ自体の中に永遠のいのちがあるのではなく、聖書の中に証しされているご自身の中にこそ永遠のいのちがあるというもので、全く解釈が異なるのです。それゆえ「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」とイェシュアは語っているのです。もっと厳しく言うなら、「あなたがたの聖書の読み方は間違っている」と言っているのです。
●アシュレークラスでは、この箇所の重要性を繰り返し、繰り返し語っています。しかし十分に理解されているわけではありません。このことばは旧約聖書、つまり「モーセ五書」(トーラー)、「預言者」(ネヴィーイーム)、「諸書(聖文書)」(ケトゥーヴィーム)の至る所において、また新約も含めた全聖書66巻が「キリストを証言している」という意味です。このことについて本格的に取り組んで語った(語っている)人はどれだけいるでしょうか。そう多くはいないようです。キリストが証しされているということは、イェシュアが語った「御国の福音」も同時に証しされています。前回取り上げた箇所(出エジプト記15章の「マラの水」)がまさにそうでした。あえて、再度取り上げてみようと思います。
●エジプトから贖い出されたイスラエルの民が、荒野で最初に経験した出来事は「水」の問題でした。三日間、荒野を歩きましたが、水が見つからなかったのです。マラの水は苦くて飲めませんでした。これは神の試みでした。このことから、主はモーセに「一本の木」を示します。この「一本の木」はキリストを啓示するメタファーです。それを水の中に投げ込みますが、この「投げ込む」という「シャーラハ」(שָׁלַח)が「遣わす」という意味です。そうすることで、「苦い水」が「甘く」なるということが「キリストの救い」を意味します。そこで主は「掟」と「定め」を授けられます。「掟」(「ホーク」חֹק)とは「日々与えられる御国の糧」を意味し、「定め」(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)とは「御国の王が民を養い育てる統治」の有様です。主の声に民が従って行くことで、「エジプトで下したような病気は何一つ下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである」と約束されます。「エジプト」はこの世のメタファーです。この約束は私たちが考えるような単なる「病気を癒やす」ということではなく、イスラエルの民が「終わりの日」に「子を産む」ことで、星の数のようになるという約束を意味します。それは「病気を癒やす」を意味する「ラーファー」(רָפָא)の初出箇所である創世記20章17節から知ることが出来ます。この約束はやがて起こされる「イスラエルの残りの者」によって実現・成就します。さらに出エジプト記15章では、神の民がエリムに着いたことを記していますが、そこは神の民が行きつく最終地点である神の国(メシア王国)を啓示しています。その証拠に、「12の水の泉」と「70本のなつめ椰子の木」がそのことを予表しています。「12」も「7」の倍数も、神の究極的な喜びを表す数です。
●このようにして、聖書はイェシュアを啓示すると同時に、イェシュアが語った「御国の福音」も預言的・奥義的・重層的に証しされているのです。このことを聖書から読み解き、語っていくことが、エックレーシアの果たすべき「最重要な課題」なのです。また、イスラエルという基軸も忘れてはなりません。イスラエルという歴史においてキリストが神の約束を実現・成就するからです。全聖書が「キリストを証言する書」だけではなく、イェシュアが宣べ伝えた「御国の福音」も証しされていることを、より鮮明にしていくことが、エックレーシアにゆだねられているのです。
(4)「モーセ」の証し
41 わたしは人からの栄誉は受けません。
42 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。
43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。
44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。
45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。
46 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。
47 しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」
●イェシュアを証しする最後の「しるし」は「モーセ」です。41節の「わたしは人からの栄誉は受けません」とのことばに、イェシュアと宗教指導者たちとの間に明確な乖離があることが分かります。「互いの間では栄誉を受ける」ことを良しとしている彼らのうちに、「神への愛がない」ことをイェシュアは指摘しています。そんな彼らを訴えるのは、イェシュアではなく、彼らが「望みを置いているモーセ」だと言っています。なぜならモーセが以下のように語っているからです。
① 【新改訳2017】申命記 18章15節
あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、
私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。●さらには、洗礼者ヨハネ自身について、消去法的に、「モーセ」が語っている「私のような一人の預言者」であることを否定しています。
②【新改訳2017】ヨハネの福音書1章19~21節
19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、
20 ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。
21 彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」 ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」 ヨハネは「違います」と答えた。
●モーセが語った①の「私のような一人の預言者」と、②の「あの預言者」はいずれも単数形です。それは第二のモーセである「イェシュア」のことです。イェシュアは永遠に「御父のふところにおられる方」であり、この地上においてもいつも御父と密接なかかわりを持っておられ、「顔と顔とを合わせている」関係です。モーセがイェシュアのことを語っているにもかかわらず、ユダヤ人たちはそれを信じませんでした。「モーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから」と、彼らがそもそもモーセのことばをも信じていないことがさらけ出されています。
ベアハリート
●今回取り上げた「四つのしるし」は、イェシュア取って代わるものではありません。ユダヤ人はバプテスマのヨハネを「しばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうと」しただけです。同様に、キリスト教会の歴史における偉大な人物(カトリックの諸聖人、ルター、カルヴァン、ウエスレー、さまざまな神学者など)をキリストに置き換える危険性があります。ユダヤ人はヨハネ自身が証しするまことの光であるイェシュアを受け入れませんでした。彼自身が「私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです」と言った真意を理解しなければなりません。
●また「父」は「神」です。父を表現できる方は「子」だけです。その「父」が「これに聞け」と言われた重要性を正しく理解する必要があります。ですから、クリスチャンが「神」ということばを使ったとしても、それでキリストを正しく受け入れているとは限りません。また、「聖書」さえもいのちを与えることはできません。聖書について書かれている文書(解説書、注解書)もそうです。「牧師の書斎」も同様です。最後の「モーセ」は、宗教の伝統・制度のしるしです。キリスト教はキリストと同一ではありません。そこには多くのパン種が含まれ、その諸制度が「いのち」を阻んでいます。宗教が「いのちであるキリスト」に置き換わる危険性があります。
●ヨハネの福音書における多くのしるしは、イェシュアが神の子キリストであることを指し示しています。それはイェシュアによっていのちを得るためなのです。このいのちがイェシュアの中にあるのであり、何ものによっても置き換えられてはならないのです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2024.5.26
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