****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

1章3節


創世記1章3節

【新改訳2017】
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

ג וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַיְהִי־אֹור׃

「ヴァヨーメル エローヒーム イェヒー オール ヴァイェヒー・オール」

ベレーシート

●2節には、「地」は「茫漠として何もない」状態ですが、すでに存在しています。「闇」も「大水」も「水」も「神の霊」も同様にすでに存在しているのです。そして「神の霊」は「メラヘフェット」(מְרַחֶפֶת)が指し示しているように、神の行為(わざ)を今か今かとかたずを飲んで見守っている状態なのです。そこに3節の「神は仰せられた」があるのです。

1. 神は仰せられた

●神が聖書で初めてなされた行為がここに記されています。それは「仰せられた」ということです。「神は仰せられた」(「ヴァヨーメル エローヒーム」(וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים)は、創世記1章だけでも11回出てきます。神のわざはすべて神の口から出ることばによってなされているのです。この声は私たちには聞こえませんが、確かに、神の口から出たことばによるものです。

●創世記1章1~3節のことを描いた詩篇19篇にはこうあります。

【新改訳2017】詩篇19篇1~3節
1 天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。
2 昼は昼へ話を伝え 夜は夜へ知識を示す。
3 話しもせず 語りもせず その声も聞こえない。

●ここでの特徴は、神の栄光のわざは語り告げ、告げ知らされているにもかかわらず、その声は聞こえないということです。しかし、神がわざをなされる時には、必ず、「口から出ることばを発せられる」ということです。「神が仰せられた」ことを聖書を通して知ることができるので、そのことを知ることができるのです。

●「仰せられた」と訳されたヘブル語は「アーマル」(אָמַר)ですが、意味は「言う」「言われた」です。「仰せられた」という訳語は新改訳だけが採用していますが、これは適訳だと思います。「仰」の前に「信」という字を加えると「信仰」となります。すなわち、信仰とは「神が口から言われたことを信じること」、これが聖書のいう「信仰」という意味になるからです。神のことばは真実であり、そこに必ず出来事(「ダーヴァール」דָּבָר)を生み出して行きます。「語る」を意味するヘブル語の「アーマル」(אָמַר)は、動詞の使用頻度としてはトップにランクします(5,308回)。同じ意味の「ダーヴァル」(דָּבַר)は第九位で(1,137回)、ノアに対して語った創世記8章15節で初めて使われています。

①【新改訳2017】イザヤ書 45章23節
わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て決して戻ることはない
②【新改訳2017】イザヤ書 48章3節
かつて起こったことは、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出て、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行い、それは成就した

③【新改訳2017】イザヤ書55章10~11節
10雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる

●神は口から言葉を発することによって、ご自身の創造のみわざをなされました。重要なことは、神が仰せられるとき(語られるとき)、「すると・・があった」とか、「するとそのようになった」と記されていることです。神の意志はことばを発することによって、そのとおりになる、その出来事が実現されるということです。

●聖書の中には、神が様々な人々に対して様々なことばを語られましたが、特に、契約約束がそうです。例えば、

①ノア契約(創世記8:8~17)
②アブラハム契約(創世記12:1~3)
③その継承者イサク(創世記26:2~5)
④その継承者ヤコブ(創世記28:13~15)
⑤モーセの召命(出エジプト記3:4~10)
⑥シナイ契約(出エジプト記19:3~6)
⑦ダビデ契約(Ⅱサムエル7:8~16)
⑧エレミヤの新しい契約(エレミヤ記31:23~34)

●この他にも、神は多くの預言者たちに対して、メシア預言やイスラエル回復の約束をしておられることを聖書は告げています。

●「神は仰せられた」(ヴァヨーメル・エローヒーム)は、必ず目に見える歴史的出来事として実現・成就して行きます。そのことを神は前もって語っている(約束している)のです。ですから、私たちはそれを、信仰を持って「聞く」ことが重要なのです。神から遣わされた御子イェシュアも天の御国(神の国)について繰り返し語られましたが、その都度、「耳のある者は聞きなさい」「聞くことに注意しなさい」と語られました。それは教会の今日的課題としての「みことばの回復」と深く関係するところなのです。

2. 「光」とは何か

●創世記1章3節の「光」(「オール」אוֹר)は、目に見える光源的な光ではなく、目に見ることのできない「光」です。この「光」の出現によって、それまであった「闇」とが「区別される」ようになったのです。「光」と「闇」、それは全く正反対の世界です。

●神の口から出たことばは「光、あれ。」でした。これは「光があるように」という意味です。使徒パウロはこの光を、神が「闇の中から光が輝き出よ」と言って呼び出されたものだと解釈しています(Ⅱコリント4:6)。「闇の中から光が輝き出よ」というのは、神はすでにあった光を、闇の中から呼び出していることになります。これは神がことばをもって命令したことによって、そのときはじめて光が創造されたのではないことを示しています。つまり、この光は「世界の基が据えられる前から」存在していたものであり、それが呼び出されたことで、「すると光があった」となったのです。

●使徒パウロはこの「光」の概念について、エペソ書1章3~14節で語っています。そこには「光」という語彙がなくても、それがユダヤ的パラレリズムによって、他の語彙で言い換え表現されているのです(この箇所は新改訳改定第三版でも、2017版でも、いずれも大きく改訂されている箇所です。ここでは改訂第三版を用いたいと思います)。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章3~14節
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5 神は、みむねみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子(=「養子」、しかし花嫁であれば父から見て子の立場にある)にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました(「プロオリゾー」προορίζω)。
6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
8 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていた(「プロオリゾー」προορίζω)のです。
12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐこと(=相続財産)の保証(=手付金)です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。


●ここには重要なことばが数多くあります。その中で最も重要なのは「あらかじめ定められていた」というフレーズと、神の「ご計画」と「みこころ」、「みむね」と「目的」ですという語彙群です。
①「あらかじめ定められていた」(=世界の基が置かれる前から)と訳された「プロオリゾー」(προορίζω)と「あらかじめお立てになった」と訳された(「プロティセマイ」προτίθεμαι)です。
②「みこころ」(「セレーマ」θέλημα)
③「みむね」(「ユードキア」εὐδοκία)
④「ご計画」(「プロセシス」πρόθεσις)
⑤「目的」(「ブーレー」βουλή)
また、この「目的」に関わる「御国を受け継ぐこと」も重要な事柄です。これらが、聖書(使徒パウロ)のいう「光の概念」と言えます。


●創世記1章3節の「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」という「光」は、私たちの目には見えない「光」です。なぜなら、この「光」は光源としての光ではなく、神が御子を通して、(世界の基が置かれる前から)「あらかじめ定められていた」神ご自身の緻密なご計画、深淵なみこころ、そして 神の御旨と目的を含んだ「測り知れない重い事柄」を包含した「光」です。まさに、この光は「人の心に思い浮かんだことのないもの」です。神が天と地を創造するにあたって、この「光」を「闇」の中から呼び出されたのです。

3. 「光」は「救い」と同義

【新改訳2017】詩篇 27篇1節
【主】は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。
【主】は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

●この詩篇にある「光」と「救い」は同義的パラレリズムです。そして、それらは「いのちの砦」なのだという信仰告白です。ここでの「私」は、個人とも言えますが、むしろ「イスラエルの民を代表している個人」(個が集団を代表とするへブル的思想)と言えます。創世記1章は、宇宙がどのように始まったのかを教えている書ではなく、あくまでも、神によって選ばれた民であるイスラエルが歴史的出来事を通して、その救いを告白しているのです。

●これから天と地が造られていきますが、その天と地という概念も、イスラエルの歴史的出来事を背景とする神の救いのフレームなのです。多くの創世記1章の注解書が書かれていますが、そのことに触れているものがあまりに少ないのです。多くが宇宙の始まりとしての章と考えています。創世記を編集した者がそのような事柄に関心を持っていたとは到底考えられません。聖書の初めの箇所で、神が語っていないことを聖書に読み込むことは、聖書が語ろうとしていることからおのずと逸脱してしまいます。イスラエルの民が経験した歴史的出来事(出エジプト、出バビロン)を通して、神とイスラエルの関わりを啓示する鳥瞰図、これこそが創世記1章なのです。したがって、「創造」という概念もおのずと異なり、それは神にしかできない「奇蹟的な永遠の救い」を示唆しているのです。私たちが認めようが認めまいが、聖書全体はまず「イスラエルありき」なのです。そのような視点から読むならば、聖書の始まりから終わりまでが、筋の通った話となってくるのです。


2019.12.30
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