1章31節
創世記1章31節
【新改訳2017】
31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
לא וַיַּרְא אֱלֹהִים אֶת־כָּל־אֲשֶׁר עָשָׂה וְהִנֵּה־טֹוב מְאֹד וַיְהִי־עֶרֶב וַיְהִי־בֹקֶר יֹום הַשִּׁשִּׁי׃ פ
1. 「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)
●この語彙はすでに29節に登場しています。そして31節にも再び登場します。これは、あることに注意を促し、関心を喚起させる語彙で、旧約聖書では1061回使われています。29節では「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える」とあり、神が男と女とに語りかけていますが、31節は「見よ、それは非常に良かった」とそれを読む者に向けられています。特に、創造の頂点である人間が造られた時にこの「ヒンネー」(הִנֵּה)が使われていることに意味があります。なぜなら、人こそ神を現わす存在として、神のかたちに造られた唯一の存在だからです。すべての被造物はこの人のために造られたからです。
2. 「それは非常に良かった」(「トーヴ・メオード」טוֹב מְאֹד)
●「それは」とは「神が造られたもののすべて」です。これまで、第二日を除いてすべて「神はそれを良しと見られた」という表現があり、最後の31節(第六日)では、「非常に」という「メオード」(副詞)がついて、「トーヴ・メオード」で「非常に良かった、はなはだ良かった、極めて良かった」という表現で締められています。創造における神の感動、神の満足が伝わってきます。
●1章4節の「神は光を良しと見られた」を、創造主訳聖書は「創造主はその光をご覧になって、満足された」と訳しています。「トーヴ」というヘブル語を「良しとする」という言い方ではなく、神の目に、神のみこころに「満足する」ものであったと訳しているのです。原語の意味合いを表現したすばらしい訳だと思います。31節はそれに「メオード」(מְאֹד)がついたもので、「非常に良かった」(新改訳2017)、「極めて良かった」(聖書協会共同訳)、「はなはだよかった」(フランシスコ会訳)、「すばらしいものであった」(創造主訳聖書)とそれぞれ訳しています。ちなみに、今日の日本の若者であれば、「超ヤバイ」とか「ヤバみ」と表現するようです。
3. 「第六日」に冠詞(הַ)がついているのは何故か
●これまで第一日、第二日・・第五日までは冠詞がなかったのに、第六日、および第七日に冠詞がついています。その意味するところは、人間の創造と安息日にことさら眼目が置かれているということです。
第一日・・「ヨーム・エハード」(יוֹם אֶחָד)
第二日・・「ヨーム・シェーニー」(יוֹם שֵׁנִי)
第三日・・「ヨーム・シェリーシー」(יוֹם שְׁלִישִׁי)
第四日・・「ヨーム・レヴィーイー」(יוֹם רְבִיעִי)
第五日・・「ヨーム・ハミーシー」(יוֹם חֲמִישִׁי)
第六日・・「ヨーム・ハッシッシー」(יוֹם הַשִּׁשִׁי)
第七日・・「ヨーム・ハッシュヴィーイー」(יוֹם הַשְׁבִיעִי)
4. 最終の「夕があり、朝があった」というフレーズ
●それぞれの日には「夕があり、朝があった」(「ヴァイェヒー・エレヴ、ヴァイェヒー・ヴォーケル」וַיְהִי־עֶרֶב וַיְהִי־בֹקֶר)という救いのリズムを表わすフレーズが置かれていましたが、第六日が最後となっています。そして第七日は昼のまま、夜(闇)がないことを意味しています。
【新改訳2017】ヨハネの黙示録21章23~25節
23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
2020.3.18
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