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1章5節


創世記1章5節

【新改訳2017】

神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

ה וַיִּקְרָא אֱלֹהִים ׀ לָאֹור יֹום וְלַחֹשֶׁךְ קָרָא לָיְלָה
וַיְהִי־עֶרֶב וַיְהִי־בֹקֶר יֹום אֶחָד׃

「ヴァッイクラー エローヒーム ラーオールヨーム ヴェラホーシェフ ライラー ヴァイェヒー・エレヴ ヴァイェヒー・ヴォーケル ヨーム エハード」

ベレーシート

●この節には、三つの事柄が記されています。
(1)「神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた」ということ。(2)「夕があり、朝があった」ということ。
(3)「第一日」ということ。
これらのことが意味することが理解できるなら、創世記1章はまさにイスラエルの歴史のただ中に現わされた出来事が背景となっていることが確信できます。

1. 「光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた」とは

●「光」と「闇」を、それぞれ「昼」と「夜」とに名づけられたとはどういうことでしょうか。光は光源としての光ではないことはすでに明らかです。その光を昼と名づけたとしても、それは私たちが考える「昼」とは異なります。闇を夜と名づけたとしても同様です。それは目には見えない「昼」であり、「夜」なのです。つまり、霊的なものです。このことについて、イェシュア自身が解釈している箇所を見てみましょう。

【新改訳2017】ヨハネの福音書9章1~7節
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、のうちに行わなければなりませんだれも働くことができないが来ます
5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

●この箇所に「昼」と「夜」ということばをイェシュアは語っておられます。この話の文脈は、「生まれたときから目の見えない人」を見た弟子たちがイェシュアに質問したシーンです。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」と。するとイェシュアは「「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と答えます。そして、この人に神のわざが現わされることが「昼」ということだと説明しています。反対に「夜」は神のみわざが現わされない「盲目の状態」だということが理解できます。これは、御子イェシュアによる創世記1章5節のすばらしい注解です。

●神の民であるイスラエルは、「昼」を意味する「神のみわざが現れる」経験をしてきました。それは「出エジプト」と「出バビロン」の出来事です。これは神にしかできない創造の栄光のみわざだったのです。これらはまさに「トーフー・ヴァ・ヴォーフー」の状況から、「ホーシェフ」(闇)の状態から、神によって解放された出来事でした。ヨハネが記している「生まれつきの盲人」のしるし(ヨハネの福音書では6番目のしるし)とは、これらのことを指し示す「しるし」なのです。

●そもそもこの創世記1章は、これらのこと(出エジプトと出バビロン)を経験したイスラエルの民が、旧約聖書を正典としてまとめる時(それ以前)に書かれたものです。さらに言うならば、創世記2~3章よりもずっと後に書かれたものだとされています。ですから、当然、創世記1章の創造は彼らが経験した出来事が背景となっていることが考えられます。神の創造とは、すなわち、神の栄光ある救いのみわざとはかくあるものだという告白なのです。その創造は歴史の中で繰り返されながら、その救いの究極は「トーヴ・メオード」(טוֹב מְאֹד)となる全く新しい創造を目指すものであり、「先(昔)の事は思い出されない」ほどのすばらしいものとなることが預言されているのです。

【新改訳2017】イザヤ書65章17~19節
17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。
18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。


2. 「夕があり、朝があった」

●「夕があり、朝があった」(「ヴァイェヒー エレヴ ヴァイェヒー ヴォーケル」וַיְהִי־עֶרֶב וַיְהִי־בֹקֶר)という表現も、神の創造の性格を表わすものです。これは、「トーフー・ヴァ・ヴォーフー」(茫漠として何もない)、および「ホーシェフ」(闇)の状況に、「光」が呼び出されることで神の創造のみわざがなされるということが背景となっている表現です。

●「夕がある」とは「夜がある」ことの始まりを示すことばです。私たちは「朝」に起きて、自分の力で働き、努力し、成功するために頑張って生きています。しかしその結果はすべてが空しい「夕」に向かっています。さらに「夜」とは光なき世界であり、「空の空」的世界です。そこには希望を見ることができず、その究極は、以下に見るように「死となる道」です。

【新改訳2017】箴言14章12節
人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。

●多くの者が人生半ばで、自ら死を選んだとしてもおかしくない世界です。しかし「夕があっても、朝がある」のです。「朝」(「ボーケル」בֹּקֶר)があるとは、必ず「昼」があるということです。そしてその「昼」とは「神のわざが現わされる」ときなのです。この「夕があり、朝があった」と言うフレーズは創造の六日目で終わっており、第七日にはありません。ということは、神の創造の完成には「夜」がないということを示しています。

●ヘブル(イスラエル)人たちは「夕(夜)」の中で神と出会います。その結果として「朝明け」を迎えるのです。その「朝」は神を待ち望んだ結果として訪れる神の恩寵の時であり、希望の朝、解放の朝です。ヤコブがイスラエルに改名した出来事にそれを見ることができます。

【新改訳2017】創世記32章21~32節
21 こうして贈り物は彼より先に渡って行ったが、彼自身は、その夜、宿営にとどまっていた。
22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。

●上記の箇所は、「ペニエル経験」と言われる有名な話ですが、ここでヤコブは名前をイスラエルと改名されていますが、その背景となる出来事が記されています。ヤコブには、兄エサウとの間に深い軋轢(苦しみ)がありました。エサウの出迎えを知ったヤコブは、その夜、不安で眠ることができませんでした。そのとき、「ある人」(=御使い)がヤコブと格闘します。その格闘は「夜から夜明けまで」続きました。この格闘はヤコブの「闇」を表わしています。ヤコブが祝福を求めて格闘したのは、自分のうちにある闇との戦いに勝利しようとしたためです。そこで御使いは決着のつかない格闘を終わらせるために、ヤコブの「ももの関節、腰の筋を打った」のです。これ以来、ヤコブは変えられたのです。つまり、自分の力を象徴する「ももの関節」(「カフ・イェレフ」כַּף־יֶרֶךְ)を打たれたことで、ヤコブは神に頼って生きるしかない者へと変えられたのです。それを象徴するように、「太陽が彼の上に昇った」とあります。ここにヤコブ(イスラエル)の「夕があり、朝があった」があるのです。そして、これは同時にイスラエルの歴史の型なのです。

●イスラエルの民が出エジプトしたとき、彼らの苦しみは絶頂に達していました。彼らにとって、エジプトはまさに苦しみそのものだったのです。エジプトのことをへブル語で「ミツライム」(מִצְרַיִם)と言います。それは彼らにとって「苦しみの場」であったからです。「なぜエジプトを「ミツライム」と言うのか」を参照。イスラエルの夜はエジプトであり、そこから救い出されて、約束の地カナンを目指す民とされたのです。これが聖書のいう神の創造です。

●「夕から朝へ」というリズムは、「苦しみから解放へ」「暗闇から光へ」「死から復活へ」の救いの型そのものなのであり、「トーフー・ヴァ・ヴォーフー」の状態から救出・回復される(創造される)ことなのです。

●一日が夕暮れとともにはじまるというヘブル人の時間感覚は彼らの歴史認識においても、またものごとや生活のすべての領域においても大きな影響を与えているのです。例えば、詩篇がそうです。詩篇には「夕から、朝へ」というリズムは、以下のように多くの例を見ることができます。

(1) 詩篇30篇5節「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」
(2) 詩篇30篇11節「嘆きを踊りに変え、・・荒布を解いて喜びを着せ」
(3) 詩篇84篇6節「涙の谷を・・泉のわく所とし」
・・など。

●このように、詩篇は終末論的希望に満ちた歴史観によって書かれているのです。したがって、詩篇の主題が「嘆きからたたえ」であるというのも、うなづくことができるのです。また、預言書の多くが「審判(破壊)」だけでなく「救い(回復)」のメッセージを含んでいるということも同じ歴史観があるからです。例えば、比較的短い「ヨエル書」(全78節)を読むなら、それは一目瞭然です。

3. 「第一日」

●ここで「第一日」という言葉が登場します。第一日から第六日まで神のわざは続いて行き、第七日目に創造のわざは完成します。ところで「第一日」という語彙は、「ヨーム・エハード」(יוֹם אֶחָד)と言って、序数の「第一」という意味ではありません。最初の日が、なぜ first dayではなく、「一つ」を意味するOne(へブル語では「エハード」אֶחָד)dayなのか、長い間、理解できませんでした。しかし、光が「昼」を意味し、それが「神の栄光あるわざが現わされること」だと知り、かつ、神の救いが「夕があり、朝となった」というリズムを持っていることを知った時、「ヨーム・エハード」が神の救いの「一つの括り」(枠組み)を示す語彙だと知ったのです。その「一つの括り」(=フォルダ)の中に、第二、第三、・・第六という救いのヨームがあるのです。その括りは、神の創造においては不変な真理なのです。

2019.12.31
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