1. ヨシュア記の主題と特徴
歴史書(1)の目次
ヨシュア記1. 主題と特徴
(1) 主題は「信仰による勝利」である
a. 約束の地カナンの獲得はすべて神の約束に対する信仰の結果である。この点において民数記とは全く対照的である。民数記(14章)は不信仰ゆえに失敗している。
b. ヨシュアに率いられたイスラエルの偉業は、新約聖書の以下の真理を証言している。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(Ⅰヨハネ5章4節) カナンの地を征服し、占領するまでの勝利の一つ一つが神に対する信仰によるものであって、人間的な力によるものでは決してなかった。イスラエルの民は戦士として戦ったが、それはあくまでも二次的なものに過ぎない。真の勝利者は主である。主が敵対する者に打ち勝ったあと、イスラエルはその後片付けとしての戦いをしたのである。まことに奇妙なタイプの戦いであるか、聖書にはこうした戦いの実例で満ちている。
(2)〔事実⇒信仰⇒経験〕の良い例証としてのヨシュア記
① 神はイスラエルの民にカナンの地を約束された。神にあって、その地はすでに与えられている。神はヨシュアにこう語った。「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」と(1章2~3節)。
② カナンの地がすでに与えられていることは一つの事実である。しかしイスラエルの民はそれをまだ経験として所有してはいない。それを経験するためには神が約束されたこと(神がなされたこと)が事実であると認める信仰が必要である。それが信仰である。
③ 「事実・信仰・経験」は次のようにたとえることができる。銀行にお金が振り込まれたという通知が「事実」であるなら、それを現金化することが「信仰」である。そしてそのお金を使うことは「経験」である。同様に、神がイスラエルにカナンの地をすでに与えたというのは事実であり、そこに侵入して戦うことが信仰、そして征服し、占領することが経験である。
④ 事実⇒信仰⇒経験という順序が重要である。これを《恩寵先行・信仰後続の論理》という。
a. 恩寵先行・・「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地」(約束)は、すでに「与えている」
b. 信仰後続・・だから「立って」、「渡って」、「行け」、「足の裏で踏め」・・信仰による実践(行動)の促し。この論理は新約聖書の書簡にも見られる(ローマ書、エペソ書、コロサイ書を参照)。
(3) ヨシュア記の「カナンの地」とエペソ人への手紙の「天の所」との類比
- ヨシュア記とエペソ人への手紙とは目を見張るような類比がある。ヨシュア記は新約聖書のより豊かなクリスチャン生活を予型として示している。エペソ人への手紙の「天にある」あるいは「天の所」という句は霊的カナンであり、キリストにある高次な霊的祝福の領域を示している。(脚注)
①両方とも、神の目的が神の民を導いていく最終のゴールであった。
②両方とも、律法によって到達することは不可能であり、信仰によってのみ受け取れる恵みの賜物であった。
③両方とも、神に立てられた指導者の手に任されていた。
④両方とも、多くの人がそれを受け損なっている。
⑤両方とも、多くの敵が依然としてはびこっている。
(4) ヨシュアという人物と指導者としての資質
①「モーセの勇士ヨシュア」(出エジプト記17章9~11節)
戦いの勝利決して自分の力ではなく、祈りとそれに答えて下さる神によることを学んだ。
②「モーセの従者ヨシュア」(出エジプト記33章11節、民数記11章28~29節)
ほかの者に神の霊が与えられて預言したとき、それを受け入れ喜ぶ度量の必要をモーセから諭された。
③「モーセの斥候ヨシュア」(民数記13章30節)
たとえ仲間と対峙しても不信仰には妥協せず、信仰によって神に従い通すことを貫いた。
④「モーセの後継者」(民数記27章18節、申命記34章9節)
上に立つ権威者モーセを通して公の場で按手された。それによってヨシュアは知恵の霊に満たされた。}}
- 神に用いられた指導者(器)は、一朝一夕にではなく、多くの時間をかけて造られるものである。ヨシュアは自分の置かれた立場と持ち場に非常に忠実であった。小さなことに忠実であるものは、多くのものを任されるというのは永遠の法則である。忠実さこそ神に用いられる最短距離である。
脚注
エペソ人への手紙には「天にある」という語句が5回使われている(1章3節、1章20節、2章6節、3章10節、6章12節)。このことばは天国を表わすものではなく、よみがえられた主と一つになるという霊的経験と特権を表わしている。神は私たちをキリストにあって、キリストとともに、「生かし」「よみがらせ」「天の所にすわらせてくださった」のである。
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