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1. 旧約聖書の歴史書の視座としての申命記

序論 1. 旧約聖書の歴史書の視座としての申命記


(1) 旧約聖書(39巻)の全体の配列

モーセ五書歴史書聖文書預言書
(創世記→申命記)(ヨシュア→エステル)(ヨブ→雅歌)(イザヤ→マラキ)
神の民としての確立と神の民としての規定神と神の民との契約の歴史的展開現在的、歴史的断面神の民の矯正と将来的展望


(2) モーセ五書の旧約における位置付けと中心的な出来事

①モーセ五書は旧約聖書全体の土台となっている。その中で最も重要な出来事は、出エジプトの出来事である。これは神の救いの歴史における土台であり、この出来事によって、聖なる神がご自身を啓示されたといえる。

②この出エジプトの出来事は、燃える柴(モーセの召命)、過越、紅海渡渉、荒野経験、シナイ山における合意に基づく契約の締結が含まれている。

③エジプトのパロのくびきから解放されたイスラエルの民は、シナイ山において神と契約を結び、正式に神の民イスラエルとなる。この契約には律法が付随し、神の民としての特別なあり方が規定されている。

④神の民の「三つの特権」・・出19章5~6節、申命記7章6節、14章2節、26章18~19節参照。

ⅰ. 「神の宝」・・・神の愛の特別な対象として選ばれている。
ⅱ. 「祭司の王国」・・この世に対して主をあかしする使命が与えられている。
ⅲ. 「聖なる国民」・・上記の使命を果たすために、神の聖に基づく新しい生き方(この世の基準とは全く異なる生き方)が求められている。レビ記11章45節参照。神の民は、単にエジプトから分離(聖別)するだけでなく、すべての国民から分離した存在となるべきであった。この分離(聖別)は人間的に見るならば、きわめて不安定な生き方を要求されることを、神の民はまだよく知ることがなかった。

  • ところで、これら三つの特権は密接な関係を持っており、申命記では「神の宝」「祭司の王国」「聖なる国民」としてのあり方が、それぞれ「神の愛」「隣人愛」「神への愛」という三つの愛の戒めとして教えている。この三種の愛を戒めとして教えているのは旧約では申命記だけである。

(3) 申命記の位置付けと申命記的歴史観
画像の説明

①〔申命記の位置付け〕

  • 申命記はモーセ五書の最後に位置し、モーセ五書をしめくくる重要な書であると同時に、ヨシュア記以下の歴史書、詩歌書、ならびに預言書の前提となるべき序文的な役割をなす位置を占めている。つまり、歴史書、詩歌書、預言書は、すべて申命記の視点から歴史が解釈され、見直されているのである。約束の地に入ったイスラエルの民とその指導者たちが、申命記にしるされている教えに従順であれば祝福が、不従順であるならば呪いが定められ、やがて破局を迎える。このような歴史観をもって書かれているのが申命記である。

②〔申命記の重要性〕

  • 申命記には、やがて神の民が歴史の中で遭遇する出来事について、警告と明確な方向付けがなされている。つまり、神の民イスラエルが歴史の中で「聖なる国民」として生きる重要な課題、すなわち「生存の保障」、「防衛の保障」、「社会福祉の理念」(公平さ、正義)、「安息年」(7年目に土地を休ませること、またイスラエルの奴隷は6年以上奴隷とされてはならないこと)と、「ヨベルの年の制定」(50年目のヨベルの年にすべての負債が免除される)による貧困の悲惨さを拭い去る制度・・・そのすべてが申命記の中で扱われている。それゆえ、申命記は歴史書や預言書を理解する上できわめて重要な書巻である。しかも、新約聖書において、主イエスが一番多く引用されたのも申命記であったという点からしても、申命記の重要性がうなずけるのである。

(4) 「聖なる民」を基礎付ける出来事の回顧と神の律法

①〔回顧の意義〕

  • 回顧ではホレブ(シナイ山)からの荒野の旅の道程が回顧される。ホレブは、ある意味において神の民イスラエルにとっての原点である。回顧では常に出エジプトの出来事と荒野での神の恵みが想起される。また、人間の失敗も想起されている。自動車のバック・ミラーが自動車の安全に前進させるために必要とされるように、回顧するのはあくまでも未知の世界への前進のためのものである。

②〔回顧の重要性

  • 回顧において重要なことは、神がイスラエルの民にどのように関わられたかという「神のストーリー」を語ることである。※(1) 神がどのような方であるかを本当に知るためには、歴史の中で神がどのように働かれるかを見なければならない。というのも、歴史こそ神の作業場だからである。したがって、歴史における神の御業を繰り返し語り、回顧することによって、はじめて私たちは神を知ることができるのである。申命記6章20節~25節には、神のストーリーを回顧し、その出来事の目的を新たに自覚させ、民の神に対するあり方が促されている。「連れ出された」「入るため」「主を恐れるように」という語句に注目しよう。特に、「連れ出された」という語句は申命記の中に10箇所出てくる。イスラエルの民は、自分たちが奴隷であったこと、そして神がしるしと不思議と力強い御手と伸べられた腕とをもって、奴隷の家から彼らを連れ出されたことを決して忘れてはならなかった。※(2)

③〔神のストーリーの原理〕

  • 出エジプトの出来事は一回限りのユニークなものである。しかしそこに込められた原理は繰り返すことができる。その原理に基づいた神の民の生き方に対する主の教えが構築される。その原理とは、「弱い者であることを恐れない」という生き方である。それは人間の最も基本的なニーズ、つまり「生存の保障」(食糧の賦与)と「防衛の保証」(敵からの守り)の領域において、イスラエルの民は何の力もなかった。武器らしいものはなにひとつ持っていなかったし、食糧も何もなかった。神の恵みによってエジプトから救い出された彼らは、神の恵みによってのみ生きることを要求される。しかしそれは必然的にリスクを伴う生き方が求められる。そのリスクとは神以外のものには頼らないという生き方である。

.「防衛の保障」

  • 出エジプト記14章の「民の生命をおびやかす戦車の大軍団」に対して、モーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って(落ち着いて)、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。・・主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(13、14節)。出エジプト記15章の「勝利の歌」を見ると分かるように、神の偉大なストーリーを感謝と賛美をもって語ることが神の民の礼拝なのである。

.「生存の保障」

  • 人間にとって、もうひとつの主要なニーズは食べるためのニーズである。飢えに対する保障は、敵からの安全保障と同じくらい重要であった。この問題に対して、主は思いがけない方法で食糧を与えて下さった。「海からやってきたうずら」と「天からのパンであるマナ」である(出エジプト記16章)

.「マナの原則」 
a. 充足性

  • いつも十分。少な過ぎることも、多過ぎることもない。
    b. 平等性
  • 貯蔵しようとしたものはみな「虫がついて臭くなった」。みな必要な分が備えられている。神の蔵は豊かであるが、私たちがそれを浪費することがないように必要な分だけ与えられる。
  • このように、出エジプト記の出来事を思い起こすことによって、神と民の変わることのない関係、つまり信頼の関係、弱さを恐れない関係を保持することが可能となる。

④〔聖なる民を基礎付ける神の律法〕

  • 神は神の民のために、律法を通して聖なる生き方の基準を示されている。神の律法は神の民が徹底的に自分の力に頼らず、神にのみ信頼することを教えている。その意味において、神の律法の規定は、主への信頼を制度化したものといえる。たとえば、「安息年」(7年目に土地を休ませ、種蒔きや収穫をやめること、またイスラエルの奴隷は6年以上に奴隷とされてはならないこと)、および「ヨベルの年」(50年目のヨベルの年にすべての負債を免除し、財産を再配分する)の律法の制定は、貧困の悲惨を拭い去る制度である。しかし経済的に愚かに見えることを実践するときも、神は恵みの業をもって介入してくださることを信じるのが、聖なる民としてのあり方であった。律法で規定されるイスラエルの諸制度は、信仰という前提に立っており、それは常識を越えるものであった。なぜ負債が免除されるのか。それは「あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、・・主が贖い出されたことを覚えていなければならない」(申命記15章15節)からである。
  • また、なぜ土地を休ませなければならないのか。それは約束の地が本来、神のものであって、神の民はそこに住むことを許されただけである。神の民はあくまでも土地の管理人であって、その所有者ではないからである。

⑤〔展望の内容〕

  • 神が約束された良い地に住む異邦の民がことごとく神によって追い払われ、その結果、神の民はその良い地を所有することができる。たとえ、敵が自分たちよりも大きく見えたとしても、主が戦ってくださる。それゆえ神の民は人を恐れてはならないのである。⇒「恐神、不恐人」の教え。
  • 主に信頼し、主の定め(律法)を守るならば、「すべての国々の民の中で、最も祝福された者となる」(申命記7章14節)ことが約束されている。と同時に、それは神の聖を映し出す者となるということである。

⑥〔神の賜わる良い地についての言及〕

  • 申命記8章7~10節、11章10~12節
  • ここで言及されている第一のことは、その地が「豊かな供給の地」だということである。これは主との関係が正しくあるならば、いつも豊かなものが与えられ、満ち満ちた生活が保障されるということを意味している。「主はわが牧者」と告白しえる経験。その地は「泉」があり、「実を結ぶ」地である。
  • 第二は、その地が「多くの宝物が隠されていて、掘り出すことができる地」だということである。
  • 第三は、その地が「恩寵の地」だということである。つまり、エジプトの地のように、自力で、あるいは努力の結果として得るのではなく、豊かな泉も、結実も、また豊かな埋蔵物もすべて神の恵みとして与えられるものだということである。

※(1)
●聖書には「神のストーリーを語る」ことに重要な価値を持たせている。例えば、モーセがイスラエルと訣別するときになされた説教がまさにそれであった。申命記29章参照。ヨシュアも同じく訣別説教でそうした(ヨシュア記24章)。捕囚の地から帰還した民に向かって、主に忠実であるようにとエズラがチャレンジしたときにも神のストーリーを語った(ネヘミヤ記9章)。そしてユダヤ最高議会の前でステパノが弁明したときにも、彼は同じ事をしたのである(使徒7章)。これらの箇所には歴史における神のストーリーが要約された形で記されている。

※(2)
●この中には、出エジプトの経験を忘れてはならないという強い訴えが繰り返し出てくる。申命記では18回。


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