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1.詩篇18篇の神への信頼

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

1. 詩篇18篇に見る神への信頼(1~3節)

【新改訳改訂第3版】詩篇表題、18篇1~3節
指揮者のために。主のしもべダビデによる。主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った

1 彼はこう言った。【主】、わが力。私は、あなたを慕います。
2 【主】はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
3 ほめたたえられる方、この【主】を呼び求めると、私は、敵から救われる。


ベレーシート

  • 詩篇18篇は50節からなる比較的長い詩篇であると同時に、「詩篇の瞑想A」でも記したように、出だしの「彼はこう言った。」というとても珍しいことばから始まっています。新改訳聖書にしかこのことばはありません。この出だしのことばと最後のことば(50節)である「主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます」は、ダビデ本人だけではなく、「そのすえ」(単数)とあることから、油注がれたイェシュアに対する預言的な詩篇であるということを、人称なき存在(御霊)が語っているのです。ダビデはむしろ「そのすえ」である方の「型」として位置づけられていると言えます。つまり、表題にある「主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った」ということばが、そのままメシアなるイェシュアにも当てはまるのです。

1. 信仰告白の持つ力(1~3節)

  • 信仰告白には二つの定型があります。この詩篇18篇にもこの二つの定型があります。一つは「主は私の〇〇〇」という型、もう一つは、(主は)「〇〇〇方」です。1~2節は前者の型、3節は後者の型です。
  • 1節には「主、わが力」という信仰告白がなされています。詩篇における信仰告白については、⇒こちらをクリック。1節に見る「主、わが力」の原文は、「アドナイ・ヒズキー」(יהוה חֽזְקִי)となっています。「ヒズキー」は「私の力」と訳されていますが、「力」を意味する名詞「ヘーゼク」の動詞「ハーザク」(חָזַק)は、本来、主が人に対して「強くあれ」と励ます激励用語です。英語では「パワー」(power)ではなく、「ストレンス」(strength)と訳されますが、この用語は名詞で使われることはとても珍しく、むしろ動詞、形容詞で使われます。反対に、「力」を表わす「オーズ」(עֹז)の場合は、動詞よりも名詞が多く使われます。
  • ユダの王ヒゼキヤは、ヘブル語で表記すると「ヒズキッヤー」(חִזְקִיָּה)となり、「神の力」を意味します。彼は預言者イザヤによって励まされながら王としてユダを治め、多くの改革をした王でした。
  • 信仰告白が生み出る背景は、多くの経験を通ることで、そこから神である主が自分にとってどのような方であったかを表わすものです。神を信じる経験が豊かであったことは、それだけ多くの信仰告白表現が生まれることになります。神の約束に対する信仰によって信仰告白が表現されるのです。もし神の約束に対して不信仰であったならば、そこからはつぶやきしか出て来ません。
  • 信仰告白は同意とは異なります。今日、インターネットを利用する上で、さまざまなソフト(アプリ)を利用する必要がありますが、それを利用する際には、必ず、利用上の約束について、同意することが求められます。この約束に対する同意と、神に対する信仰は全く異なったものです。「神の御子イェシュアはあなたのために身代りとなって十字架にかかりました。しかし死からよみがえったことで、イェシュアを自分の救い主として信じる者に神は永遠のいのちを与えてくださいます。そのことを信じますか。」というのは、同意を求める促しです。しかし、信仰告白は自分の生存と防衛の保障を主にゆだねることを意味します。ですから、信仰告白は聖霊の助けなしにはできないのです。神の事実に対して同意できても、自分のすべてを主にゆだねることができるためには、主の約束に対する信仰が不可欠だからです。
  • イスラエルの民が奇蹟的な救いを経験した者たちでありながら、神の約束を信じることができなかったのは、神に対する信仰が育っていなかったからです。神は生きた信仰を育てるために、さまざまな困難や苦難を経験させ、彼らが主を呼び求めることを通して、主がどのような方であるかを経験させる必要があったのです。神を信じること、これが「義」の概念であり、神の目に正しいことなのです。
  • 「力」は、以下の信仰告白を統括する語彙と考えることができます。
    すべて「わが〇〇」で個人的告白がなされています。

①「巌」(「セラ」סֶלַע)
②「とりで」(「メツーダー」מְצוּדָה)
③「救い主」(「ファーラト」פָלַטのピエル態分詞)
④身を避ける「岩」(「ツール」צוּר)
⑤「盾」(「マーゲーン」מָגֵן)
⑥救いの「角」(「ケレン」קֶרֶן)
⑦「やぐら」(「ミスガーヴ」מִשְׂגָּב)


●これらはすべて防御的な用語ですが、「盾」を意味する「マーゲーン」(מָגֵן)の動詞の「マーガン」(מָגַן)には、「引き渡す・授ける」という意味があります。名詞の「マーゲン」の初出箇所は創世記15章1節ですが、その動詞がその前の章である14章20節に登場します。ここはサレムの王である祭司、メルキゼデクがアブラムに対して語ったものです。

【新改訳改訂第3版】創世記14章20節
あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

●「盾」が動詞で使われる時、敵を引き渡すという意味になるのだとすれば、単なる防御を越えた意味になります。神が「盾」となられるとは、敵を引き渡すというニュアンスもあるということです。


(2) ほめたたえられる方

  • 「ほめたたえられる方」は、ヘブル語の「ハーラル」(הָלַל)の分詞受動態です。なぜそのような告白が力を持つのかと言えば、「ほめたたえられる方」を呼び求めることによって、敵から救われる(受動態)からです。この「呼び求める」ということがきわめて重要なのです。
  • 人が初めて神を呼び求めたのは、セツの子エノシュの時代になってからのことです。そのとき、「人々は主の御名によって祈ることを始めた」(創世記4:26)のです。口語訳はこの部分を「このとき、人々は主の御名を呼び始めた」と訳しています。つまり、「主の御名によって祈る」ことと「主の御名を呼ぶ」ことは同義です。
  • 人々が主の御名を呼び始めたのは、おそらく彼らの周辺にはカインの末裔が多くいたからであったと思われます。神を計算に入れることのない者たちの時代において、セツ、エノシュの系列は神の助けなくして生きていけなかったのかもしれません。彼らは「主の名を呼ぶこと」で信仰の道を歩むことができたのです。この信仰の系列を、イェシュアが登場するまで途切れることなく聖書が記しているのは、驚くべきことです。


2016.11.8


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