10.「ヨハネの福音書6章の『二つのしるし』」
10.「ヨハネの福音書6章の『二つのしるし』」
ベレーシート
●ヨハネの福音書6章に入る前に、1~5章にある重要なエキスを整理してみましょう。ヨハネの福音書の中心テーマは「いのち」と「建て上げ」であり、その計画はエデンの園からメシア王国に至るまで一貫しています。それは「神の住まいを建て上げる」ことです。
第一章では七つのしるし(ことば、幕屋、子羊、鳩、とどまる、岩、神の家)を見ました。天にある「ことば」が人となって、最終的には「神の家」(ヤコブの梯子のヴィジョン)となることです。その神の永遠の目的を成就するために、歴史の枠の中に五つのしるしが不可欠なのです。
第二章では三つのしるしを見ました。第一のしるしである「三日目」はイェシュアの復活を表し、「水が良いぶどう酒に変わる」ことと「神殿(宮)を三日でよみがえらせる」こととが、死からいのちを生み出すしるしとなっています。
第三章ではユダヤ教の教師であるニコデモを通して五つのしるしを見ました。それは「夜、新生、永遠のいのちを持つ、御子を信じる、無尽蔵に与えられる霊」で、それらは「夜」が指し示す宗教では得ることのできないものです。
第四章ではサマリヤの女を通して二つのしるしを見ました。それは伝統を重んじるヤコブの井戸ではない「渇くことのない生ける水」と、ゲリジム山の場所ではない「霊とまことの礼拝」です。キリストこそ、生けるいのちの源泉であり、礼拝のための生けるコルバン(ささげ物)です。
第五章では「聖なる都エルサレムでの例祭、安息日、バプテスマのヨハネ、御父、聖書、モーセ」さえも、キリストなしでは永遠のいのちはなく、全くの空です。キリストから離れては、ベテスダ(=「あわれみの家」の意)の池にいた人たち(病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人)があわれみを受けることはできません。
●今回の第六章には、二つの大きなしるしがあります。その一つは「五千人を養うイェシュア」、もう一つは「湖の上を歩くイェシュア」です。
1. 五千人を養うしるし
●6章1~14節の「五千人を養うしるし」は、共観福音書と共通で記されている珍しい奇蹟です。この箇所を三つに区分することが出来ます。Aは1~4節、Bは5~11節、Cは12~14節です。
A. 1~4節
【新改訳2017】ヨハネの福音書6章1~4節
1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
(1) 「湖・海」・・「ガリラヤの湖」
●舞台はエルサレムではなくガリラヤです。ガリラヤには「湖(海)」(ヤーム: יָם)があります。「湖・海」はこの世の象徴です。ガリラヤの海に象徴されるこの世での人々の問題は「飢え」です。病院にいる人も多いですが、スーパーで食料を求める人はそれ以上です。人は食物なしに生きていくことができません。ですから、サタンは公生涯に入る前のイェシュアに近づいて試みようとしました。
【新改訳2017】マタイの福音書4章1~4節
1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4 イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
●「それから」とは、イェシュアが洗礼を受けられた後です。イェシュアが御霊に導かれて荒野に上って行かれたのは、「悪魔の試みを受けるため」とあります。どんな試みなのでしょうか。「荒野」は「ミドゥバール」と言われるように、「神のことばを聞く場所」「神のことばによって養われる所」という意味です。そこにイェシュアは導かれて、「四十日四十夜、断食をした」ことが記されています。「断食をする」とは、神のことばに専心して生きることを意味しています。イェシュアの地上での受胎から誕生、そして33年半の歩みはすべて、御国を建て上げるためです。特に公生涯が始まる洗礼から、受難と死と復活までのすべての言動が「御国」を証ししています。「四十日四十夜の断食」も、御国のデモンストレーションです。それは「試みる者」であるサタンが近づいてきて「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」と言ったことで明らかにされます。御国の証しとは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」ということです。御国が来ると「人は・・神の口から出る一つ一つのことばで生きるようになる」ということです。事実、イェシュアが御霊に導かれて神のことばによって養われたように、イェシュアの中へと信じる者は霊のからだが与えられてそのように生きる者となることを預言して、そのように言ったのです。
●イェシュアの洗礼は私たちの洗礼とは異なり、「最初のアダム」と「イスラエルの民」をすでに取り込んでいます。以下のイスラエルの民の歩みを踏み直しているのです。
【新改訳2017】申命記8章3~5節
3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。
4 この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。
5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。
●イェシュアが荒野の40日間で十分満たされたにもかかわらず「空腹を覚えられた」のは、生理的な現象ではなく、人を取り込んだ後であったことを知る必要があります。イェシュアが「空腹を覚えられた」のは二度あります。一度目は公生涯の最初の断食後、二度目は公生涯の最後でエルサレムに向かっている時です。いずれも、イスラエルの民(ユダヤ人)が神のことばによって養われていない、信仰の危機的な状況を言い表したことばです。今回のヨハネ6章にも同様のことが扱われています。
(2)「山に登り、弟子たちとともにそこに座られた」
●イェシュアが「山に登り」、「弟子たちとともにそこに座られた」にある「山」と「座られた」は、御国における重要なしるしです。マタイ5章1節にも「イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た」とあるように、冠詞付きの「山」(ハーハール:הָהָר)は御国のセンター(中心)となるエルサレムを象徴する場所として重要です。「座る」という動詞「ヤーシャヴ」(יָשַב)も、御国において主とともに「住む」ことが啓示されていて重要です。「五千人の給食」の奇蹟は御国の素晴らしい奥義が隠されていることを予感します。
B. 5~11節
【新改訳2017】ヨハネの福音書6章5~11節
5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
(1) 試される弟子たち
●イェシュアは大勢の群衆が来るのを見て、「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」とピリポを試しました。イェシュアが語る内容はすべて御国についてです。そのことに弟子たちがどれだけ関心を持っているかを試しているのです。私たちも同様です。イェシュアが語ることは御国についてであり、そのことにいつも関心が払われているかどうかを問われているのです。もし私たちがたましいでそれを聞くなら、何の益も受けることはないのです。しかし霊で聞くなら御国のメッセージを理解でき、希望をもって語ることができるのです。
●ピリポは答えます。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」。そこで弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレもイェシュアに言います。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
●共観福音書と合わせると、以下のような流れが見えてきます。
①マルコ6章38節 「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」
②ヨハネ6章9節「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
③ルカ9章13節「・・・・私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」
④マタイ14章16節「彼ら(=群衆)が行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」
●以上が試された弟子たちの答えです。すべて否定的です。なぜなら、イェシュアのことばをたましいで聞いているからです。イェシュアの語ることばは、「霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)とあるように、霊で聞く必要があるのです。正確には、御国の福音の話として霊の中で聞く必要があるのです。それが多くの実を結ぶ「良い地」(マタイ13:8)なのです。心ではありません。霊です。「良い地」とは、人の霊とキリストの霊がともに働くところです。それ以外の場所では何の実も結べないのです。
(2) 「大麦のパン五つと、魚二匹」が意味するもの
●「大麦のパン五つと、魚二匹」は、ユダヤ人の聖書(タナフ) です。「大麦のパン五つ」とは、イェシュアが「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」と言われた、モーセ五書のことです。それを「大麦のパン五つ」と表現しています。なぜなら、「大麦」は「初穂の祭り」に献げられるもので、「復活」を啓示しているからです。
●タナフの中で、「モーセ五書」(トーラー:תּוֹרָה)は祭司たちサドカイ派とパリサイ派両方にとって正典です。しかし「魚二匹」は「預言者」(ネヴィーイーム : נְבִיאִים)と「諸書」(ケトゥーヴィーム : כְּתוּבִים)を表しています。この二つはパリサイ派にとっては正典ですが、トーラーの参考書扱いです。サドカイ派はトーラー以外正典として認めていません。
●ところで、「預言者」と「諸書」がなぜ「魚」にたとえられているのでしょうか。それは、その二つが単なる参考書的な位置付けではなく、トーラーに記されている神のご計画とみこころがイスラエルの歴史の流れの中でどのように具体化していくのかを預言しているからです。生きた魚は目に見える流れに逆らって泳ぐことが出来るように、神のご計画は実現するのです。「二」の数はそのことの証しです。しかも「魚」の語源の「ダーガー」(דָּגָה)は「増える」ことを意味し、神のいのちはますます豊かに増殖されるのです。
(3) 「五千人」
10節 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
●なにゆえ、座った人の数が「五千人」だったのでしょうか。これは共観福音書とヨハネがこぞって記している数です。マルコでは「するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。」とあります。太字の百と五十の数は幕屋の外枠の寸法です。北・南側が100キュビト、東・西側が50キュビトですから、「五千人」という数には神と人がともに住む幕屋が背景にあると考えられます。場所は、「寂しいところ」(ルカ9:12)、「人里離れたところ」(マタイ14:15、マルコ6:35)と、いずれも「エレーモス」(ἔρημος)であることから、イェシュアがいつもそこで祈っていた場所、すなわち「荒野」(神のことばを聞く場所)とみなすことが出来ます。荒野と幕屋は神と人との交わりの場所であり、そこに座るとは、メシア王国で神のパンにあずかることを意味します。そこはいのちの木そのものであるキリストを食べる場所です。
C. 12~14節
(1)「余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいに」
【新改訳2017】ヨハネの福音書6章12~13節
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。●12節で「彼らが十分食べた」は「満腹になった」(サーヴァ: שָׂבַע)ことを意味します。パンは「大麦」であり、「大麦」は復活の象徴です。彼らは復活されたパン、すなわち復活されたイェシュアが与えるパンで満腹することになるという預言です。その後にイェシュアは弟子たちに「余ったパン切れを集めなさい」と命じています。「余った」と訳されたギリシア語は「ぺリッセウオー」(περισσεύω)で「有り余る、残る」という意味ですが、ヘブル語にすると「ヤータル」(יָתַר)の分詞となり、そこから名詞の「イェテル」(יֶתֶר)が派生します。その意味は「残り物」という負のイメージではなく、その逆の「卓越・豊かさ」という意味があります。
【新改訳2017】詩篇17篇14節
・・あなたの蓄えで 彼らの腹は満たされ 子たちは満ち足り(שָׂבַע) その余り(יֶתֶר)をさらにその幼子らに残します。
●主にある者の腹は豊かな食べ物で満たされ(מָלֵא)、その子らも十分に食べ(שָׂבַע)、その幼子にも豊かに(יֶתֶר)残されるのです。それは詩篇23篇1節にある「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」の預言的経験と同義です。「乏しくなる、不足する」を意味する動詞「ハーサル」(חָסַר)が明確に否定されて、「ロー・エフサール」(לֹא אֶחְסָר)です。このことばを是非覚えたいものです。使徒パウロも「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)と記しています。「したがって」(カタ: κατὰ)とは「豊かさの中から」という意味ではなく、「豊かさにふさわしく、それに応じて」の意味です。そのようなみことばの恩寵を私たちはどれほど味わっていることでしょうか。
●主が与える「食べ物」は、食べたら無くなってしまうというものではなく、食べれば食べるほど増し加わっていくというまことに不思議な「霊の食べ物」です。「彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった」の「十二」は、神の究極的な満足と喜びを表す数です。ヨハネの黙示録にはその数と倍数がふんだんに啓示されています(12, 12+12=24, 12×12=144, 12×1000=12000, 144×1000 =144,000)。
●この話は、どんなわずかなものでも、どんなに小さなものであっても、私たちがそれを主に献げて行くなら、主がそれを祝福して用いてくださり、有り余るほどの恵みと祝福となっていくというような意味ではありません。そうではなく、イェシュアの与えるパンは、私たちに必要な永遠の養いのための「食べ物」であるということであり、決してわずかであっても無駄にしてはならない、尊く、卓越したものなのです。
(2) 「世に来られるはずの預言者」
●「五千人の給食」の恵みに与った人々は、14節で「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言ったとあります。ここでの「世に来られるはずの預言者」とは誰のことでしょうか。
【新改訳2017】申命記18章15節
あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。
●モーセが語った「私のような一人の預言者」とは、冠詞付きの「預言者」(単数「プロフェーテース」προφήτης)で、それはイェシュアのことであることを前回学びました。恵みに与った人々が「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と判断したことはすばらしいことでした。ところが、人々はそのことを霊の中で受け取っていなかったために、後でイェシュアから離れ去っていくことになります。まさに彼らの心は「土の薄い岩地」(マタイ13:5)だったと言えます。
2. 湖の上を歩くしるし
【新改訳2017】ヨハネの福音書6章15~21節
15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。
16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。
17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。
19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。
20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。
●「五千人を養うイェシュア」のしるしにこのしるしが付け加えられているのはなぜでしょうか。16~21節で最も重要なフレーズがあるとすれば、それは何でしょうか。
●「いのちのパン」の話は、メシア王国において王となられるメシアがご自身の民を十全に養われるという話です。しかしそうしたイェシュアがメシア王国において王として治める前に、必ず「~へと湖を渡って行った」ことと、「強風が吹いて湖は荒れ始めた」ことがここでの焦点です。「渡って行った」はヘブル語の「アーヴァル」(עָבַר)が使われています。「アーヴァル」(עָבַר)は「ヘブル人」(イヴリート: עִבְרִית)の語源となっています。つまり、「ヘブル人」とは「川を渡って来る者」という意味で、人間中心の世界から神中心の世界に、人間の価値観から神の価値観へ「渡って来る」ということです。イェシュアは弟子たちに、「御国」に入るために遭遇する出来事があることを「実地訓練」を通して教えようとされているのです。それゆえに「~へと湖を渡って行く」ことが重要です。しかも「渡って行く」中で、必然的に「強風が吹いて湖は荒れ始める」ということが起こるのです。具体的には、獣と呼ばれる反キリストによって未曾有の大患難がイスラエルの民に起こるという出来事です。
●15節で、人々が誤ったメシア観をもって、自分たちの「王」とするためにご自分を連れて行こうとしているのをイェシュアは知って、「再びただ一人で山に退かれた」とあります。これも主が再び「山」である「天」に退かれたことは、復活後に昇天することの予表かもしれません。そのため、弟子たちは彼らだけで舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行ったとあります。時は、夕方から夜にかけてのことです。イェシュアは「だれも働くことができない夜が来ます」(ヨハネ9:4)と言っているように、まさに「夜」は強風が吹いて湖は荒れ始めるのです。「強風」とは、神に敵対する勢力を意味します。反キリストが立ち上がることで、「湖・海」である諸国の民も神に敵対するようになり、未曾有の大患難が訪れるのです。しかし、イェシュアは湖の上を歩いて舟に近づいて来られます。これは「イスラエルの残りの者」に対するメシアとしての地上再臨を予表させます。
【新改訳2017】詩篇93篇4節
大水のとどろきにまさり 力強い海の波にもまさって 主は力に満ちておられます。いと高き所で。【新改訳2017】ヨハネの黙示録12章13~16節
13 竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。
14 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。
15 すると蛇はその口から、女のうしろへ水を川のように吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
16 しかし、地は女を助け、その口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
●「竜」とはサタン、「女」とは「イスラエルの残りの者」(黙7:4~8)、「男の子」とは「イスラエルの残りの者」が御国の福音を宣べ伝えることによって救われる大勢の異邦人(黙7:9~17)です。15節の「蛇はその口から・・水を川のように吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした」の「大水」とは、反キリストが全世界からハルマゲドンに集結させた軍勢です。しかしそれは地上再臨されたメシアによって「飲み干されます」(滅ぼされます)。
ベアハリート
●今回はヨハネの福音書6章から二つのしるしを取り上げました。この二つのしるしは、御国の視点から見るならばつながる話なのです。御国がどういう国(マルフート: מַלְכוּת)であるか、と同時に、神がどのようにしてそれを成就されるのかをイェシュアは多くのたとえを通して、またさまざまな奇蹟というしるしを通してデモンストレーションされたのです。「御国の福音」とは、王となるべきお方が、ご自身の民をどのようにして呼び集め、造り上げていくかというメッセージです。それを紡ぎ出し、怯むことなく伝えていくことがエックレーシアの務めです。「強風が吹いて湖は荒れ始める」前に、そのことを宣べ伝えなければなりません。私たちがそのための「王なる祭司」となれるように祈り求めて行きたいものです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2024.6.09
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