11.「ヨハネの福音書6章の『食べるというしるし』」
11.「ヨハネの福音書6章の『食べるというしるし』」
ベレーシート
●前回、ヨハネの福音書6章から、「五千人を養うしるし」(1~14節)と「湖の上を歩くしるし」(15~21節)の二つを取り上げました。この二つのしるしは、御国が来るとこうなる、あるいは御国が来る前にこういうことが起きるというデモンストレーションです。しかしその場にいた人たちの中で、真意を見出した者はいませんでした。22節以降には、以下の三つのグループに対してイェシュアが語られたメッセージが綴られています。
(1)群衆たち・「五千人を養うしるし」に与った群衆に語ったもの(22~40節)。
(2)ユダヤ人たち・カペナウムの会堂でユダヤ人に語ったもの(41~59節)。
(3)弟子たち・・・ (1)(2)を聞いてきた弟子たちに語ったもの(60~71節)。
●(1)(2)(3)に共通しているのは「いのち」(ゾーエー:ζωή)です。ヨハネの福音書の中心テーマは「いのち」と「建て上げ」であることはこれまでも学んできましたが、重要なことは、イェシュアの中へと信じる者が「いのち」を持つことです。死からよみがえられたイェシュアは「いのちを与える霊」となって、私たちのど真ん中に入ってきて私たちの霊を再生し、いのちの供給となっています。ですから、そのイェシュアの口から出てくる数々の霊であることば(レーマ:ῥῆμα)を食べることが不可欠なのです。
●聖書はイェシュアについて証しするものです(5:39)。と同時にイェシュアを食べる書でもあるのです。このことを、今回の主要なメッセ―ジとして扱いたいと思います。
1. 永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい
●イェシュアは群衆の問いかけに応えながら、より深い真理へと導いていかれます。
【新改訳2017】ヨハネ福音書6章26~36節
26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」
●26節で「まことに、まことに、あなたがたに言います」(Ἀμὴν ἀμὴν λέγω ὑμῖν)というフレーズが再び登場します。ヨハネ特有のこのフレーズは、「復活の光から見ないと理解できませんよ」というサインです。ヨハネの多くのしるしは、イェシュアの復活の視点から語られているのです。
●「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(28節)とあるように、群衆がイェシュアを捜す動機をイェシュアは見抜いておられました。彼らは、「五千人を養うしるし」に込められた真の意味が何かを尋ね求めることはありませんでした。イェシュアが「パンを食べて満腹したからだ」と言っておられるように、現世ご利益的レヴェルの満足によるものです。それは人間の欲求を満たすもので、イェシュアからすると「なくなってしまう食べ物」(=朽ちる食物)に過ぎません。一時は満足するかもしれませんが、すぐに飢え渇いてしまうものです。こうした満足を得るために、多くの人は働いていると言えます。そうした群衆に対して、イェシュアは「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われました。ここでの「働きなさい」(エルガゾマイ: ἐργάζομαιの現在命令形)は、永遠のいのちに至る食べ物を「優先的に追求し続けなさい、得ようとし続けなさい」という意味です。
●そこで、群衆は「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか」と尋ねます。28節の「神のわざ」は複数形(エルガ:ἔργα)になっています。群衆がイェシュアのことばを律法的に解釈して、数々の何かをしなければならないことだと思い違いをしているのです。しかしイェシュアの「働きなさい」は「神が遣わした者を信じること」であり、「信じる」とは「神が遣わした者であるイェシュアの中へと入っていく(身を避ける)ことによって、イェシュアと一つとなることです。これがイェシュアのいう29節の「神のわざ」であり、単数形(エルゴン:ἔργον)で表されています。そこで群衆は、以下のことをイェシュアに尋ねます。
【新改訳2017】ヨハネの福音書6章30~36節
30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。
31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。
33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。
●31節で群衆は「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」と言います。「天からのパン」は「マナ」のことです。しかしこのマナはやがて世に来られるイェシュアの型です。「モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」とあります。その「まことのパン」とは「神のパン」であり、「天から下って来て、世にいのちを与える」ものだと言ったとき、群衆は「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」と言います。これはサマリアの女が、イェシュアから「この水(ヤコブの井戸の水)を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:13~14)と聞いたときに、「主よ。私が渇くことがないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と言ったことと同様です。群衆もそんな便利な食物があるなら、私たちに与えてほしいと言っているのです。永遠のいのちへの水を、また永遠のいのちに至る食べ物を、何よりも優先して追求し、得ようとしたのではないのです。
●さらにイェシュアは、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と語り、「わたしがいのちのパンです」と宣言されます。これは「わたしはいのちを与えるパン、いのちを養うパン、いのちの根源であるパンである」という意味です。しかし、「あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません」とイェシュアは言っています。なぜ彼らは信じないのでしょうか。また、イェシュアが「あなたがたに言ったように」とは何を指しているのでしょうか。
●「モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」とイェシュアが語っているところに信じない理由があるのです。というのは、31節の群衆が言ったこととして『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と訳されていますが、原文には「神は」という語彙はなく、「彼は」となっています。その「彼は」を、群衆は「モーセ」だと考えていたようです。ですから、イェシュアは「モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに・・与えられたのです」と正されたのです。与えたのはモーセではなく、「わたしの父」であり、「彼らに」ではなく、「あなたがたに」なのです。にもかかわらず、「あなたがたはわたしを見ても信じない」とイェシュアは言っておられるのです。
●信じるということは、実に不思議なことであり、神秘です。なぜなら、「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます」(37節)とあるからです。イェシュアのもとに来る者が誰であるかを、イェシュアも知らされていないということです。しかし「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」(37後半)と語っています。「外に追い出したりしない」とはどういう意味でしょうか。「来る者はだれでも決して拒みはしない」という意味でしょうか。いいえ、「外に追い出す(投げ出す)」とは「滅びに突き落とす」という意味です。ここでイェシュアが語っていることは、いのちのパンであるイェシュアを食べる者を、すなわち「わたしに与えてくださったすべての者」を「わたしが一人も失うことなく」、つまり、一人も滅びることなく「終わりの日によみがえらせる」と約束しているのです。
●37節の「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます」という意味のフレーズは、ユダヤ人たちにカペナウムの会堂でイェシュアが語ったことば(41~59節)の中にもあります。
【新改訳2017】ヨハネの福音書6章44~45節
44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。
45 預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。
2. イェシュアを食べる
●47節以降、ユダヤ人たちに語られたイェシュアのことばの中に、何度も繰り返されている語彙があります。それは「食べた、食べる」(エススィオー:ἐσθίω/アーハル:אָכַל)で、この箇所だけでも10回です。
【新改訳2017】ヨハネの福音書6章47~58節
47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
48 わたしはいのちのパンです。
49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
52 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。
53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55 わたしの肉はまことの食べ物(ブローシス:βρῶσις)、わたしの血はまことの飲み物なのです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを&size(): &size(px){Text you want to change};;は永遠に生きます。」
●旧約の「マナ」が啓示していたのは、「いのちのパンであるキリスト」です。聖書はイェシュアを証しする書であると同時に、イェシュアを食べる書でもあります。聖書全体(創世記~黙示録)には「食べる」ことが強調されています。「食べる」ことによって、食べたもの(食べ物=食物)と「一つになる」からです。
(1) 創世記1章
●ここでの「あなたがた」とは「人」(男と女)です。26節で、「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、・・すべてのものを支配するようにしよう。」と神は言われました。しかし27節では、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあります。26節にあった「似姿」(デム―ト:דְּמוּת)がなくなっています。なぜ「似姿」がなくなったのでしょうか。その理由は、29~30節にあります。それは「種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木」を人が食物として食べることによって、神の似姿となるためです。それは28節と29節の命令を成就するためです。その命令とは、人が「人が生み、増え、地に満ちるため」であり、かつ人が「地を従え、海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物支配する」ためです。ちなみに、「種のできるすべての草」は「キリストに導く養育係のような食物」であり、「種の入った実のあるすべての木」は「永遠のいのちをもたらす食物」です。「種」はキリスト、「草と木」とは「神のことば」のメタファーです。人がそれらを食べることによって、はじめて神の似姿となり、神に代って地を支配するようになるのです。この神のご計画とみこころを預言しているのが、創世記1章が教えていることです。
(2) 創世記2章
●創世記1章が神のご計画とみこころを預言しています。2章も同様です。2章では、人が神の器として形造られ(ヤーツァル:יָצַר)ます。その使命を果たすために、神がエデンの園に生えさせたすべての木を食べる必要があります。木の中から、そこから「善悪の知識の木」だけを取り出して食べるなら、「必ず死ぬ」と神は警告されました。これは預言的・奥義的です。イェシュアが来なければ決して分からない事柄なのです。人がエデンの園に置かれたのは、1章とは異なり、「耕し、守る」務めのためです。この務めとは「王なる祭司の務め」です。この務めを果たすために、神は園に木を生えさせたのです。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と訳されていますが、原文の文法的見地から検証すると、「思いのまま食べてよい」ではなく、「すべての木から食べよ」という意味になります。神がイスラエルの民を、40年の間、荒野を歩ませられたのは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった」(申命記8:3)のです。
●しかしこれらの「食べ物」は、私たちが口から食べる食物のことではありません。人が草や木を食べるでしょうか。これは「人の霊」が食べる食物なのです。イェシュアは「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)と言われました。イェシュアの数々のことばレーマ(ῥήμα)こそ、私たちが食べるべき「霊の食物」なのです。
(3) 出エジプト
●創世記で人が食べるのは「木」です。出エジプトで人が「食べる」のは「子羊」です。
【新改訳2017】出エジプト記12章3~8節
3 イスラエルの全会衆に次のように告げよ。この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。
4 もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。
それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。
そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、
7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
8 そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。
●この箇所には「食べる」(アーハル:אָכַל)が4回あります。すべて「羊」を食べることです。「羊」は贖罪としてのキリストを啓示しています。また出エジプトでは、人は荒野で先祖が知らなかった「マナ」を食べました。マナもキリストを啓示しています。
(4) 申命記
●申命記では、「良い地」でカナンの産物を食べることが求められます。
【新改訳2017】申命記8章7~10節
7 あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、・・・のある地、
8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。
9 そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、・・・
10 あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。
●カナンに「良い地」とは、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブ油と蜜のある地です。これら七つの食物の一つ一つがすべてキリストを啓示しています。ですから、その計り知れないキリストの豊かな食物を注意深く味わうように食べなければなりません。また主の例祭において、ある期間を特別に聖別して、みことばに隠された御国の奥義を味わうべきです。
(5) 新約の書簡
●新約においては、何よりも「食べる」ことを強調しているのはヨハネの福音書です。パウロの書簡においても同様にされています。
【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章16節
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。
●ここには「食べる」という語彙はありませんが、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにする」ためには、「主を食べる」ことが不可欠です。しかも、「あなたがたのうちに」とは、心(たましい)ではなく、「良い地」となる「霊の中に」(=ミングリングされた人の霊とキリストの霊の中に)です。私たちは、「キリストのことば」を私たちの霊の食物として食べ、それによっていつも満たされているべきなのです。
(6) ヨハネの黙示録22章
●新しいエルサレムにおいても、人は「いのちの木」を食べることが記されています。つまり永遠にキリストを食べるということです。
【新改訳2017】ヨハネの黙示録22章1~2節
1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
ベアハリート
●以上のように、この世の基が置かれる前から、人が「主を食べる」ことは主の定めなのです。「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」(ヨハネ6:57)。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」(同、6:63)。私たちが主を食べる方法は霊によってです。霊によってとは「主の名を呼ぶこと」です。「主の御名(シェーム・イェシュア: שֵׁם יְשׁוּעַ)」と呼び求めることによって、「主を食べる」のです。主を食べる唯一の器官は霊です。
●「あなたのみことばは 私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも 私の口に甘いのです。」(詩119:103)とあるように、「主を食べる」ことが、益々、蜜のように「甘い」ものとなりますように。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2024.6.23
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