12.「ヨハネの福音書7章の『飲むというしるし』」
12.「ヨハネの福音書7章の『飲むというしるし』」
ベレーシート
●ヨハネの福音書の中心テーマは「いのち」と「建て上げ」です。6章のしるしは「食べる」ことでした。それは天からのパンであるイェシュアを食べて、いのちを得ることです。しかし7章のしるしは「飲む」ことです。しかし7章ではその奇蹟はなく、約束として「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と語られているだけです。何を飲むのかと言えば「イェシュアの霊」であり、「イェシュアの中へと信じる者が受けることになる霊」です。6章と7章はワンセットであり、飢え渇きに対して、天からのパンと生ける水の川によって「イェシュアを食べ飲みする」ことの重要性が語られています。
●7章では、やがて「人の心の奥底から、生ける川の水が流れ出るようになる」ことを正しく教えるために、①「わたしの時はまだ来ていません」(1~13節)、②「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです」(14~24節)、③「わたしがいるところに来ることはできません」(25~36節)というイェシュアの三つのことばを持って支える形となっています。しかも、さまざまな人々との会話の中でそれらが語られています。ヨハネの福音書7章にあるイェシュアの数々のことばは、イェシュアの弟子たちに語ったものではなく、以下に挙げる人々に語られたものです。
①ユダヤ人たち(宗教指導者たち) ②イェシュアの兄弟たち
③群衆 ④エルサレムのある人たち ⑤パリサイ人たち
⑥ 祭司長たちとパリサイ人たち
⑦下役たち(祭司長たちとパリサイ人たちがイェシュアを捕らえようとして雇われた者たち) ⑧議員たち ⑨ニコデモ
●イェシュアへの罪定め(さばき)を巡って、宗教指導者であるユダヤ人たちと群衆の間に、また群衆の中に分裂が起こっています。議員たちの中でも意見の相違が生じています。また誤解も見受けられます。今回は37~38節のイェシュアのことばから始めたいと思います。そこには、私たちが飲むべき「生ける水の川」のしるしについて語られています。
1. だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい
●人が木や川を「食べ飲み」することは、人が造られた創世記2章ですでに記されています。
【新改訳2017】創世記2章9~10節
9 神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。・・・
●神である主が9節では人が食べるべき木を生えさせ、10節では人が飲むべき川を湧き出させていました。人はエデンの園で神のことばである木を食べ、霊であるいのちの水の川を飲むことで、神である主と交わるように定められていました。ヨハネの黙示録22章に、そのヴィジョンの啓示を、ヨハネは見ています。
【新改訳2017】ヨハネの黙示録22章1~2節
1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした(=「健やかにしていた」の意)。
●また旧約には、神である主に選ばれたイスラエルの民が荒野に導かれたとき、彼らは天からのパンである「マナ」と「岩から出る水」によって、飢えと渇きを満たされたことが記されています。
①【新改訳2017】出エジプト記16章4節
主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを
試みるためである。●「天からのパン」が「マナ」で、イェシュアの口から出る一つ一つのことばを啓示しています。イェシュアはサタンに対して、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(マタイ4:4)と言っています。
②【新改訳2017】出エジプト記17章6節
さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。●「岩」とは「キリスト」であるとパウロは解釈しています(Ⅰコリント10:4)。その岩を打つとは、キリストが「死ぬ」ことを意味します。死んで復活することで、イェシュアが神の民の霊の食べ物と飲み物となるのです。出エジプト記16章と17章はそのことを啓示していました。バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民に対して、ネヘミヤは荒野時代の神の恵みを回顧していますが、その中にもそのことが語られています。
①【新改訳2017】ネヘミヤ記 9章15節
彼らが飢えたときには、天からパンを与え(出16章)、渇いたときには、岩から水を出し(出17章)、・・
②【新改訳2017】ネヘミヤ記 9章20節
あなたは、彼らを賢くしようと、ご自分の良き霊を与え、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには水を与えられました。●②で顕著な点が見られます。それは「あなたは、彼らを賢くしようと、ご自分の良き霊を与え(られた)」と記されていることです。原文は以下の通りです。
●神が神の民を「賢くしようと、ご自分の良き霊を与える」ことが不可欠であることが語られています。旧約最後の預言書のマラキ書でも、「神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。」(2:15)とあります。ここにも「霊」の重要性が語られています。それから400年後のイェシュアのことばにつながっているのです。
●また、ネヘミヤが語った時というのが城壁を完成した月の翌月、主の例祭のひとつである七日間の「仮庵の祭り」と「きよめの集会」(八日目)を行った後で、イスラエルの民は自分たちと先祖の罪を告白して、神を礼拝し、主を賛美しました。その賛美の中で5~37節の長い祈りがささげられるのですが、その中に「あなたは、彼らを賢くしようと、ご自分の良き霊を与え(られた)」があるのです。このことは、預言的・奥義的・重層的です。重層的であるとは、事実、荒野の時代にも、「主は彼らを賢くしようと、ご自分の良き霊を与えて、彼らの口からご自身のマナを絶やさず、彼らが渇いたときには水を与えられた」という霊的恵みを含んでいたことが仮庵の祭りの時に回顧されています。これは、のちにイェシュアが同じ祭りの「大いなる日」に語られたこととつながります。「つながる」というのは、神のご計画において、歴史的必然があるということです。マラキ書でも「自分の霊に注意せよ」と警告されていますが、旧約の霊は永久的なものではなく、限定的なものでしかありませんでした。そこでイェシュアにつながってくるのです。
●イェシュアも同じく「仮庵の祭り」の最終日の「大いなる日」に語ったのが、ヨハネ7章37~38節のことばです。「大いなる日」は最も聖なる日です。祭りのクライマックスです。その時に、イェシュアがすでに「立ち上がっておられ」(大完了形)て、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言ったということは、祭りによって人の渇きが満たされないことを予め知っておられて、語られたことばだということです。このことは、キリスト教の集会を行うことによって渇きが満たされることがないということと同じです。むしろかえって「渇く」のです。そこでイェシュアは言われます。
37「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者(わたしの中へと信じる者)は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊(冠詞なし)について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
●4章でも、すでにイェシュアはサマリアの女に対して同じことを語っています。
【新改訳2017】ヨハネの福音書4章13~14節
13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます(ディプサオー:διψάωの未来形)。
14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
(原文=永遠のいのちへの水が湧き出ること(ハッロマイ:ἁλλομαιの分詞)になります(ギノマイ:γίνομαιの未来形)
●「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」も、また、「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」も、太字の部分はいずれも未来形です。やがて時が来たら「決して渇くことがない」ということ、そして「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」ということが、やがて現実となることを語っています。ただ、7章の場合は、それをもたらすことになる「霊」が「まだなかった」ことを鮮明にしています。イェシュアが「栄光を受ける」時とはいつのことなのでしょうか。それを提起しているのが、7章2~13節なのです。
2. わたしの時はまだ来ていません
【新改訳2017】ヨハネの福音書7章2~13節
2 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。
3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい(=公然と世に表す)。」
5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
6 そこで、イエスは彼らに言われた。
「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。
7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。
8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。
11 ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。
12 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしている(=πλανάω=危険な人)のだ」と言っていた。
13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。
※「ユダヤ人たちを恐れた」とは、ユダヤの宗教指導者たちの政策に対して恐れていたことを意味します。
(1) わたしの時はまだ来ていません
①【新改訳2017】ヨハネの福音書2章4節
すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
②【新改訳2017】ヨハネの福音書 7章6節
そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。
③【新改訳2017】ヨハネの福音書 7章8節
あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
④【新改訳2017】ヨハネの福音書 7章30 節
そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
⑤【新改訳2017】ヨハネの福音書 8章20 節
イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
(2)時が来ました
①【新改訳2017】ヨハネの福音書12章23 節
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
② 【新改訳2017】ヨハネの福音書17章1 節
これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。
「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
(3) イェシュアの定められた「時」とは何か
●人の子であるイェシュアの「時」とは、「イェシュアが栄光を受ける時」です。それは、人の子イェシュアがエルサレムで苦しめられ、殺され、三日目に死からよみがえられる時です。その時に、イェシュアは「いのちを与える霊」となられます。そして人のただ中に入ることが出来ます。事実、それは機能不全を起こした人の霊を再生して、その霊の中に内住される、すべてを含む霊です。このことが起きる時は、仮庵の祭りではなく、過越の祭りです。イェシュアが世において公に表される時とは、エルサレムにおいて死と復活を通られる時です。それはイェシュアが公に「世に憎まれる」時なのです。
●イェシュアの兄弟たちは、仮庵の祭りの時に公然と自分を世に明かしなさいと提言します。ところがイェシュアは「わたしはこの祭りに上って行きません」と言いました。なぜなら、「わたしの時はまだ来ていないから」です。「わたしの時」は、仮庵の祭りではなく、過越の祭りの時と定まっているからです。イェシュアが栄光を受ける時とは、イェシュアがエルサレムで苦しみを受けられ、死んで、三日目に「いのちを与える霊」としてよみがえる時です。その時こそ「わたしの時」なのです。
●「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである」(7:39)とあります。「下っていなかった」と訳すと、あたかも五旬節の聖霊降臨の時に「その霊は下った」と思わせます。ですからここは、原文通り「まだなかった」がふさわしい訳と言えます。なぜなら、その霊は「いのちを与える霊」(Ⅰコリ15:45)のことだからです。イェシュアは復活されたその日の夕べに弟子たちの所に現れ、息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』と言われ、「いのちを与える霊」となって弟子たちの「霊」を回復し、内住されました。このことが神の奇しいわざなのです。ここから「新しい創造」が始まるのです。それはすでに包括的に(客観的に)始まっているのです。ここから、「キリストにあるニュークリーチャー(New Creature)」として、「たましい」が造り変えられ始め、携挙の時には「たましい」も「からだ」も完全に変えられるのです。このことによって、エレミヤ書31章にある「新しい契約」が成就されます。ですから「霊」は極めて重要なのです。
【新改訳2017】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─主のことば─。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
●これらすべては神の霊によってなされるのです。それゆえ、「たましい」(心)ではなく、「霊」によって生きることが求められているのです。「たましい」は「からだ」とともに、「肉」の領域にあります。肉の思いは神に敵対するものです。ですから、肉にある者は神を喜ばせることはできないのです(ローマ8:7~8)。私たちの霊は神の霊とともに働いて、神の子どもであることを証しするのです(ローマ8:16)。
3.わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のもの
【新改訳2017】ヨハネの福音書7章14~19節
14 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。
15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」
16 そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。
17 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。
18 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。
19 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
●「祭りもすでに半ばになったころ」、つまり、ここでの祭りは「仮庵の祭り」で、八日間も行われている祭りです。イェシュアは弟子たちに隠れて秘かに、この祭りに上って行きました。その祭りの「半ば」つまり四日目になって、公然と姿を現して教え続けられたのです。その教えにユダヤ人たちは、「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか」と驚いた(驚き続けた/未完了形)のです。
●当時、学問をする場合はユダヤ教のラビの下で研鑽を積んだようです。特にパリサイ派は年長者を敬い、年長者のラビに対立するようなことをせずに、先輩を非常に尊重して学問をしていたようです。同様に、イェシュアも自分自身の教えを教えているのではなく、「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです」と言っています。原文は、「わたしの教えは、わたしのものではなく、かえって(ἀλλὰ)、わたしを遣わされた方のもの」とあり、強い否定を表す「アッラ」(ἀλλὰ)で強調されています。共観福音書を見ると、イェシュアが「律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」(マタイ 7:29)と表現していますが、これはイェシュア独自のユニークな見解を述べたのではなく、あくまでも、イェシュアを遣わされた方、すなわち御父の教えを語ったがゆえに権威があるのだ、という意味です。問題は、17~18節のことばの意味です。17節の「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります」とは、どういう意味でしょうか。
【新改訳2017】詩篇40篇8節
わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。
あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。
●これは前の節を伴い、ヘブル人への手紙10章7節にも引用されています。このみことばを百パーセント満たすことのできる方はイェシュアしかいません。神のみこころを行うことを喜びとするためには、心に神の律法が刻みつけられなければできないことなのです。ですから、「新しい契約」(エレミヤ書31:33)では、「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と約束されているのです。すでに、この「新しい契約」は包括的になされています。しかし、いまだ完成されてはいません。それが完成されるのは、エックレーシアにとっては携挙される時です。そのときに私たちのたましいとからだは変えられて、神のみこころを完全に行えるようになるのです。イスラエルの残りの者にとっての完成は、メシア王国の終わりです。ですからイェシュアは、宗教指導者であるユダヤ人たちに対して、まだ霊さえも与えられていないので、「あなたがたはだれも律法を守っていません」(19節)と言ったのです。
4. わたしがいるところに来ることはできない
【新改訳2017】ヨハネの福音書7章31~36節
31 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。
32 パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。
33 そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。
34 あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」
35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々(ディアスポラ)のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。
36 『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」
●34節のことばはどういう意味でしょうか。13章33節では弟子たちに対して語っています。
【新改訳2017】ヨハネの福音書13章33節
子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。
●「子どもたちよ」とは「弟子たち」のことです。シモン・ペテロがこのことばに反応します。
【新改訳2017】ヨハネの福音書13章36~38節
36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
37 ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」
38 イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
●イェシュアが言っている「わたしがいるところに来ることはできません」(7:34)、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません」(13:36)とは、イェシュアの十字架の死です。イェシュアは死を通って、復活するので、「後にはついて来ます」(同)と言われたのです。それはペテロが後に主の証人として殉教し、やがてよみがえることが定まっているからです。「死と復活」はユダヤ人にとっても、弟子たちにとっても隠された神の奥義です。この出来事を通して、神はイェシュアを王とする御国を打ち立てようとしているのです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2024.7.07
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