13.「ヨハネの福音書8章の『姦淫の女のしるし』」
13.「ヨハネの福音書7章の『姦淫の女のしるし』」
ベレーシート
●7章は「仮庵の祭り」の時でした。8章はそれに続くエルサレムの神殿の境内での出来事です。テキストを読みましょう。
【新改訳2017】ヨハネの福音書7章53節~8章11節
53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。
1 イエスはオリーブ山に行かれた。
2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
9 彼らはそれを聞くと、(良心によって責められながら) 年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された(=カタレイポー:καταλείπω=見捨てられた)。
10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか(回復訳=「罪に定めなかったのか」)。」
11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない(罪に定めない)。行きなさい。
これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕
●5世紀頃に〔 〕の部分である上記の7章53節~8章11節が挿入されたと言われています。なぜこの話が挿入されたのでしょうか。思うに、8章12節から始まるイェシュアの「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」という真理を、より鮮明にするためだと思われます。ヨハネの福音書8章は「罪」について、9~10章では「盲目」について、そして11章は「死」について扱われています。これらはいずれもサタンがもたらしたものであり、イェシュアとユダヤ人たちとの確執がより鮮明になってきます。
1.律法学者とパリサイ人
●8章1~11節では、「律法学者とパリサイ人」がイェシュアを告発する理由を得ようと、律法のことでイェシュアを試みます。5章で38年も病気にかかっている人に、イェシュアが「床を取り上げ、歩きなさい」と言ったことで、彼はすぐに治って、床を取り上げて歩き出しました。ところが、その日が安息日であったことから、ユダヤ人たちはイェシュアを「迫害し始め」(5:16)、「殺そうとするようなった」とあります(5:18)。なぜなら、イェシュアはユダヤ人たちが大切に守っている安息日を破っていただけでなく、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」と言って、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからです。イェシュアに対するユダヤ人の敵意はさらに強まっていきます。
●「ユダヤ人たち」という語彙は、ヨハネの福音書で38回登場します。それらは「宗教指導者たち」を意味します。ユダヤ教の「宗教指導者たち」とは、サドカイ派を中心とする神殿ユダヤ教の祭司と、パリサイ派を中心とする律法主義者を言います。使徒パウロはユダヤ教の宗教システムのことを「ストイケイア」(στοιχεῖα)という言い方をします(ガラ4:3, 9、コロ2:8, 10、ヘブル5:12)。それは「この世のもろもろの霊による体系」を意味すると同時に、その教えの奴隷となっている人々をも意味しています。それゆえイェシュアは、モーセの律法を「あなたがたの律法」(8:17,10:34)と言い、それに対してご自分の教えを「わたしの教え」とし、「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです」(7:16)と言っています。「律法」はノモス(νόμος/תּוֹרָה)で、「教え」はディダケー (διδαχή/תּוֹרָה)で、ギリシア語では語彙が異なっても、へブル語では同じく「トーラー」です。
●イェシュアの教えは父の教えですが、ユダヤの宗教指導者たちの教えの父はモーセではなく「サタン」だ、とイェシュアは断罪しています。
【新改訳2017】ヨハネの福音書8章44節
あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。
●ユダヤ人たちは、モーセの教えを「613の戒め」としてまとめ、それらの戒めを守ることによって神に祝福されると考え、教えていました。そうした彼らに対してイェシュアは、「あなたがたはだれも律法を守っていません」(7:19)と語っています。自分たちが守れていない教えを人々に背負わせている、とイェシュアがユダヤ人たちの偽善を非難したことで、イェシュアに対するユダヤ人の敵意はますます強まっていきます。これから展開する「罪」「盲目」「死」に対して、宗教は何の力もないのです。そのことを最初に示すしるしが、今回の「姦淫の女」の話なのです。
●イェシュアの教えと、ユダヤの宗教指導者たちの教えは、「ぶどう園の中に、実を結ばないいちじくの木を植えた」話のようです。「ぶどう園」はイスラエルの象徴です。そのぶどう園にいちじくの木が植えられるとどうなるかは、すでに創世記2章17節で警告されていたことです。そのことを説明しましょう。
【新改訳2017】創世記2章16~17節
16 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
●16~17節のみことばは、預言的かつ奥義的です。預言的とは、イェシュアが到来しなければ理解できない事柄、つまり、イェシュアが来ることで初めて理解できるという意味です。また、奧義的とは、例えば創世記1~3章には至る所にイェシュアが証しされていますが、「最初のアダム」のことだと思っていたら、いつの間にか「最後のアダム」のことが語られているということがしばしば見られます。重層的に語られているという意味で奥義的です。それは神のシナリオにしたがって聖書が記されているからです。つまり、「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う」とあるからです(イザヤ 46:10)。
●さて、創世記2章16~17節には誤訳が含まれています。「思いのまま食べてよい」と訳された部分は、「必ず食べなさい」と訳すべきです。その理由は三つあります。
①第一は、「善悪の知識の木から・・・食べるとき、あなたは必ず死ぬ」の「必ず死ぬ」と「思いのまま食べてよい」が、全く同じ文法表記「不定詞+未完了動詞」となっていることです。「思いのまま食べなさい」と訳すと許容的な表現となり、明確な命令とはなりません。(聖書協会共同訳の「園のどの木からでも取って食べなさい」も【新改訳2017】と似た二ュアンスですが、)新共同訳の「園のすべての木から取って食べなさい」の方が原文に近いです。しかし「アーホール・トーへール」(אָכֹל תֹּאכֵל)は「必ず食べなさい」です。ちなみに「必ず死ぬ」は「モート・タームート」(מֹות תָּמוּת)です。
②第二は、あることを限定する「それから」を意味する「ミンメヌー」(מִמֶּנּוּ)が明確に訳出されていないことです。ここで限定されているのは「善悪の知識の木」です。「神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせ」(2:9)ました。「木」は「神のことば」を表しています。「善悪の知識の木」も良いものとして、主は生えさせました。ですから、「エデンの園に主が生えさせた食べるのに良いすべての木から、善悪の知識の木だけを(それから)取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」ということを、神である主は警告されたのです。この警告を無視したのが、神殿ユダヤ教、律法主義というストイケイアなのです。ユダヤ教は神の教えであるトーラーから「善悪の知識の木」だけを取り出して食べた宗教なのです。ですから、規則、規定、きまりを守らなければ罰則がもたらされるという、〇✖式の二元論的思考パターンの宗教体系なのです。
③第三は、モーセがイスラエルの民(第二世代)に語ったことばの中にあります。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(申命記8:3)。これを実現してくださる方こそ神の子イェシュアなのです。「すべてのことば」の中には、「神のご計画とみこころ、みむねと目的」、それを実現させる神の知恵と知識のすべてを含んでいます。ですから、すべてのことば、つまりすべての木を「必ず食べなさい」と命じているのです。
●イェシュアが登場した時代のユダヤ教は、まさに神の教えの中から、善悪の知識の木だけを取り出して食べた宗教システム(=ストイケイア)なのです。イェシュアが来られた当時のエルサレムは、もはや主の宮ではなく、ストイケイアの巣窟となっていたのです。神から遣わされた「いのちの木」であるイェシュアは、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」とある通り、みことばを回復すべく神のしもべとして遣わされたのです。ところが、イェシュアはエルサレムにおいて、ユダヤ教の宗教指導者たちによって苦しみを受け、殺されるのです。しかし三日目によみがえられます。
2. イェシュアを告発するための試み
●ヨハネの福音書の8章に話を戻したいと思います。3節に「律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ」とあります。彼らがその女を連れて来た目的は、「イエスを告発する理由を得ようと、イエスを試み」(8:6)とあるように、イェシュアを告発する理由を得るためです。そしてイェシュアに言います。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
●旧約の掟によれば、すべての裁判において二人の証人が揃わなければならないとされています。実際に目撃証人が二人いて捕らえられたのかどうか、事の真相は全く省かれています。モーセの律法によれば、姦淫をした男と女は両方とも死刑とされることが記されています。
①【新改訳2017】レビ記20章10節
人が他人の妻と姦淫したなら、すなわち自分の隣人の妻と姦淫したなら、その姦淫した男も女も必ず殺されなければならない。
②【新改訳2017】申命記22章22節
夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。
●ところが、律法学者とパリサイ人が連れて来たのは女だけです。しかも「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています」と言っていますが、いずれも「石打ちにする」とは書かれていません。ただ婚約中の処女の場合、男女ともに石打ちにすることは決まっていました(申命22:23~24)。ですから、マリアの夫となるヨセフがマリアの妊娠で悩んだことは了解できます。
●イェシュアを告発する理由を得る彼らの試みとは、イェシュアがどう答えることで、それが得られるのでしょうか。当時のユダヤはローマの支配下にあったために、姦淫した者は死刑とされると聖書にあったとしても、ローマの手前それはできないと答えるとすれば、律法を守らない者としてイェシュアを告発できる。逆に、律法に従って死刑にすべきと答えるなら、ローマに対する反逆の意志がある者として告発ができる。いずれの答えであっても告発できるのです。この悪意ある問いかけは、パリサイ派とヘロデ党の者たちの問い「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」(マタイ22:17)と同じです。
●パリサイ人たちは「どのようにして・・ことばの罠にかけようかと相談した」(同15節)とあります。「ことばの罠にかける」、正確には「エン・ロゴス」(ἐν λόγος)で、「ことばによって、ことばで」罠にかけるということです。「罠にかける」(パギデューオー:παγιδεύω)という語彙は新約でここ1回限りですが、ヘブル語では「ことばの矢を射掛ける」という表現になります。マタイ22章15節は詩篇64篇の成就と言えます。詩篇64篇では、神に敵対する者が苦いことばの矢を放ちますが、神も彼らに矢を射掛けられるのです。パリサイ人たちが「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」と矢を射掛けたのに対し、イェシュアは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と逆に彼らに矢を射掛けられたのです。
●「射掛ける」と訳されたヘブル語の「ヤーラー」(יָרָה)は、本来は「教える」(トーラーの語源)という意味ですが、神のさばきの領域でこの語彙が用いられる時には、「射掛ける」「投げ込む」(出15:4)という意味になります。出エジプトしたイスラエルの民を追ってきたファラオの戦車とその軍勢を、主は海の中に投げ込みました。そのように、イェシュアに対して「ことばの罠にかけよう」(=ことばの矢を放った)としても、逆に矢を射掛けられてしまい、沈められてしまうのです。その結果、「もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった」(マタイ22:46)となります。
●ヨハネ8章も同様です。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか」との問いかけに対して、イェシュアは答えず、あえて身をかがめて、指で地面に何か書いておられました。しかし彼らが問い続けるので、イェシュアは身を起こして言われます。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 そしてイェシュアは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられたとあります。
●この場面でのイェシュアの「身をかがめる」という動作にどんな意味があるのでしょうか。ギリシア語は「キュプトー」(κύπτω)ですが、へブル語は「カーファフ」(כָּפַף)です。これは詩篇57篇6節の成就かもしれません。
①【新改訳2017】詩篇57篇6節
彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています(כָּפַף)。彼らは私の前に穴を掘り 自分でその中に落ちました。セラ
②【新改訳2017】詩篇145篇14節
主は倒れる者をみな支え かがんでいる(כָּפַף)者をみな起こされます。
●詩篇57篇6節の「うなだれる」、および詩篇145篇14節の「かがむ」が「カーファフ」(כָּפַף)です。なにゆえに「うなだれているのか」といえば、「彼らは私の足を狙って網を仕掛けた」からです。ところが、「彼らは私の前に穴を掘り、自分でその中に落ちました」とあるように、網を仕掛けた者が自ら仕掛けた罠に落ち、自滅するのです。なぜなら、主はかがんでいる者をみな起こされるからです。「起こされる」とは、勝利することです。事実、イェシュアを告発しようと試みた者が、逆にイェシュアの放ったことばによってみな自滅しています。神に逆らう者は必ず自滅するというのが神の摂理です。彼らを自滅させたことばは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」です。このことばによって、「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イェシュアだけが残された」とあります。
3.残された女とイェシュア
●「女とともに、イェシュアだけが残された」の「残された」ということばに、重要な意味があります。その「カタレイポー」(καταλείπω)は「見捨てられた」という意味でもあります。「カタレイポー」の「カタ」は強意を表す前置詞です。「女とともに、イェシュアだけが残された」は、創世記2章24節を連想させます。そこでは、男が「父と母」を「見捨てる」話です。そうすることで、男と女は一体となるのです。
【新改訳2017】創世記2章24節
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
●ここにある「離れ」が「アーザヴ」(עָזַב)という動詞で、「見捨てる」という意味です。何を見捨てるのかと言えば、それは「父と母」です。この「父と母」も預言的・奧義的・重層的です。それは生物学的な意味での「父と母」ではありません。ここでの「父と母」は、「ストイケイア」としてのユダヤ教のことです。「父」は「神殿ユダヤ教」の「神殿」(へーハール:הֵיכָל)を意味します。もう一方の「母」は「律法主義」(トーラー:תּוֹרָה)を意味します。神殿の「へーハール」は男性名詞で、律法主義の「トーラー」は女性名詞です。二つ揃って「父と母」となるのです。男が「父と母」であるストイケイアを見捨てることによって、男と女ははじめて一体となるのです。
●今回のヨハネ8章の「姦淫の女」がイェシュアとともに「残された」のは、上記のような背景としてみなすことができるのです。場所は神殿の境内、そしてそこにイェシュアを告発するために現れた律法学者とパリサイ人の設定は、まさしく創世記2章24節の「父と母」なのです。創世記2章ではすでにこのことが隠され、警告されていて、イェシュアやパウロが登場した時に、はじめて明らかにされるのです。隠されたものは必ず、神の活動の舞台である歴史の中で現されてくるのです。
●神殿、律法主義を中心とする宗教は決していのちをもたらすことができません。人の立てた宗教システムはおのずと神に敵対するものとなります。なぜならそれは悪霊たちによるからです。それゆえイェシュアを告発しようとするのです。その正体は内なる偶像礼拝をもたらし、霊的な姦淫を行っているのです。イェシュアの語った「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」ということばは、「勇士の鋭い矢、えにしだの炭火」(詩篇120:4)です。つまり、「霊であり、いのちのことば」ですが、彼らを去らせることはできても、彼らを悔い改めに至らせるためには、死と復活を通った「いのちを与える霊」が不可欠なのです。
●この「姦淫の女」は、イェシュアとともにいる「イスラエルの残りの者」の型です。共観福音書にも「12年間の長血の女」と「会堂管理人ヤイロの12歳の娘」が登場しています。この二人も、12という数が示しているように、やがて救いにあずかる「イスラエルの残りの者」を象徴しています。御国の視点から見るなら、「長血の女」の癒やしは、マラキ書4章2節の成就である終わりの日の出来事を、型として証ししています。
【新改訳2017】マラキ書4章1~2節
1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──
2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者(=イスラエルの残りの者)には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
●また、「会堂管理人ヤイロの12歳の娘」の死からの復活は、同じ終わりの日の預言であるエゼキエル書37章10節の成就を、型として証ししています。
【新改訳2017】エゼキエル書37章9~10節
9 そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」
10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼ら(=イスラエルの残りの者)の中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。
●また今回取り上げた「姦淫の女」は、ゼカリヤ書12章10節の預言の成就の型です。
【新改訳2017】ゼカリヤ書12章10節
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。
●イェシュアとともにいる「姦淫の女」は、終わりの日に「恵みと嘆願の霊」が注がれた、イェシュアをメシアと信じる「イスラエルの残りの者」を象徴しています。この女は「新しい契約」にあずかって、姦淫の罪からも赦されています。それゆえ、もう二度と「霊的姦淫(偶像礼拝)の女」とならないように、イェシュアから「わたしもあなたにさばきを下さない(罪に定めない)。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と命じられています。サタンは常に「律法学者とパリサイ人」を用いて、姦淫を犯した女であるイスラエルを責めて神に敵対しようとします。サタンの本質は「訴える」ことです。神の妻であるイスラエルが、ここでは「一人の姦淫の女」として訴えられているのを見ることができます。しかしイェシュアはこの女に対して罪の赦しを宣言し、病いを癒やし、死からよみがえった「女」として、キリストとともに新たな歩みをするようにと、「行きなさい」(レヒー:לְכִי/男性形なら「レフ・レハー」לֶךְ־לְךָ)と命じているのです。「ハーラフ」(הָלַךְ)は霊的に深いことばなのです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2024.7.21
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