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14.「ヨハネの福音書8章の『世を照らす光のしるし』」


14.「ヨハネの福音書8章の『世を照らす光のしるし』」

ベレーシート

●ヨハネの福音書8章は「罪」について、9~10章では「盲目」について、そして11章は「死」について扱われています。これらはいずれもサタンがもたらしたものであり、イェシュアとユダヤ人たちとの乖離がより鮮明にされて行きます。今回はイェシュアの語られた二つのことば、すなわち、「わたしは世の光である」(12~20節)と「わたしが行くところにあなたがたは来ることができない」(21~30節)の二つのことばを取り上げます。

1.「わたしは世の光である」

【新改訳2017】ヨハネの福音書8章12、20節
12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである

●「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とのイェシュアの宣言は深淵であり、奥義的です。特に、「わたしは世の光です」というイェシュアの自己宣言は、「わたしはいのちのパンです」に続く、「エゴー・エイミ」(Ἐγώ εἰμι)です。「エゴー・エイミ」とは、ギリシア語で「わたしは~である」という表現です。

●ヨハネの福音書では以下のような言い方で、イェシュアご自身が「エゴー・エイミ」を語っています。
①「わたしだ(エゴー・エイミ。ヘブル語/アニー・フー:אֲנִי הוּא)。」(6:20)
②「わたしはいのちのパンです。」(6:48)
③「わたしは世の光です。」(8:12)
④「わたしは羊たちの門です。」(10:7)
⑤「わたしは良い牧者です。」(10:11)
⑥「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)
⑦「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)
⑧「わたしはまことのぶどうの木・・です。」(15:1)
⑨「わたしがそれだ。」(18:6, 8)

●⑨はすごいことばなのですが、多くの人は気づきません。

【新改訳2017】ヨハネの福音書18章6~8節
6 イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。
7 イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
8 イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」

●6節と8節の「わたしがそれだ」(原文では「エゴー・エイミ」Ἐγώ εἰμι)は、実は、旧約で神がモーセに対して語った神ご自身の名前です。

【新改訳2017】出エジプト記3章13〜14節
13 モーセは神に⾔った。「今、私がイスラエルの⼦らのところに⾏き、『あなたがたの⽗祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と⾔えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)
また仰せられた。「あなたはイスラエルの⼦らに、こう⾔わなければならない。『わたしはある』という⽅が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

●ところが、この出エジプト記3章14節にある神の名は、旧約ではここ⼀箇所だけです。神はその後この名前を隠します。この名前は預言的です。預言的とは、のちにイェシュアが遣わされることで初めて明らかにされるということです。現代ヘブル語訳は一貫して「わたしがそれだ」という意味の「アニー・フー」(אֲנִי הוּא)としています。しかし正しくは、「エゴー・エイミ」とは、出エジプト記3章14節の「わたしはある」という意味なのです。これを「わたしは・・であった」でも、「わたしは・・になるであろう」でもなく、「わたしは・・である」と語っていることから、永遠に変わらない神の名前なのです

画像の説明

●ところで、אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶהの読み方は、以下のように、注解者によってさまざまです。

①「エヘイェ アシェル エヘイェ」 ②「エヒイェ アシェル エヒイェ」
③「エーイェ アシェル エーイェ」 ④「エフイェ アシェル エフイェ」

●神の名をみだりに読んではならないのですが、学者でもない私はこの神の名を「エイェ アシェル  エイェ」と読んでいます。この名は明らかに神の名前です。そのように考えるなら、ヨハネの福音書18章6, 8節でイェシュアを捕らえようとやって来た者たちが、イェシュアが自分のことを指して「わたしはある」と言ったとき、「後ずさりし、地に倒れた」ということが理解できるのです。「後ずさりし、地に倒れた」というのはヨハネの独占記事で、共観福音書にはありません。この「わたしはある」という神の名前が旧約では隠されてきました。しかし、それがイェシュアの名前であることを、イェシュアご⾃⾝が明らかにされたのです。

●もう少し、詳しく見ていきたいと思います。創世記1章では、被造物に対する神の名前として「エローヒーム」(אֱלֹהִים)でしたが、2章4節以降では、「神である主」、「アドナイ・エローヒーム」(יְהוָה אֱלֹהִים)となっています。これは人に対する神の名前です。また「主の使い」は創世記の中で何度も登場しています(16:7,9,10,11 /22:11,15)が、ある時は「神の使い」としても登場します(21:17)。これらは受肉前のイェシュアです。同様に出エジプト記では、ホレブでモーセの前に「主の使い」(マルアフ・アドナイ:מַלְאַךְ יְהוָה)として現れます(出3:2)。この後は、「神」と「主」が同義として記述され、「神」は「アブラハム・イサク・ヤコブの神」として啓示され、「主」は「エジプトの手から彼ら(イスラエルの子ら)を救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、・・彼らを導き上る」方としてモーセに啓示されます。その後で、モーセが次のように尋ねます。

【新改訳2017】出エジプト記3章13~14節
13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

●このやり取りを見るなら、「『わたしはある』という者」「『わたしはある』という方」とは、実際にイスラエルの民をエジプトから救い出した「神である主」です。出エジプト記6章2節で、神はモーセに「わたしは主である」と啓示されますが、その名の中にやがて来られる「人の子イェシュア」が隠されていたのです。

2. 「世の光」

●ヨハネの福音書に戻ります。「わたしは・・である」に加えて、「わたしは世の光である」の「世の光」(ホ・フォース・トゥー・コスムー:τὸ φῶς τοῦ κόσμου)を付け加えています。これは「世を照らす光」という意味です。ただし、この光は創世記1章3節の「光」(オール:אוֹר)であり、光源としての「光」ではなく、呼び出された「光」です。これを、パラレリズムの大家であるパウロは、エペソ人への手紙1章で「神のご計画とみこころ、みむねと目的」と言い換えています。それは世界(=世=コスモス)の基が据えられる前からあったものです。また、箴言29章18節では「」と言い表されています。「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう」とは、神の民が神のご計画である「幻」(ハッゾーン:הַזּוֹן)を知らずにいるならば、民は思いのままにみことばを読み、自分勝手に解釈してしまうということを意味しています。こうした弊害をもたらした置換神学の影響は今日においても大きいと言えます。

●ヨハネ8章20節で「イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された」とあります。なぜ、このような記述が必要だったのでしょうか。「献金箱の近く」と「世の光」がどう結びついているのでしょうか。当時の神殿には、婦人の庭という区域があり、その北側の方に献金箱(あるいは賽銭箱)が置かれていたようです。「献金箱」をギリシア語では「ガゾフュラキオン」(γαζοφυλάκιον)と言い、新約では5回使われています(マルコ12:41,41,43、ルカ21:1、ヨハネ8:20)。当時のお金は硬貨でしたから、大金を投げ入れる者は自分をひけらかす機会となったはずです。ストイケイアは偽善を産みだす温床なのです。「世の光」はこうした偽善をあぶり出す光です。

画像の説明

●神殿の庭は外庭と内庭に分かれていて、婦人の庭は外庭です。外庭と内庭の境に階段があり、そこに13本のラッパのような形の献金箱があったようです。その近くに4本の純金の燭台があり、この燭台の光は、煌々と神殿全体を照らしていたのです。イェシュアが「わたしは世の光です」と語られたのは、仮庵の祭りの時です。その祭りは40年間、神が昼は雲の柱、夜は火の柱によって荒野を導かれたことを記念する祭りでした。イェシュアはそのことを引き合いに出して、「わたしこそが世の光です」と語ったと思われます。

「光」(オール:אוֹר)は「いのち」(ハッイーム:חיִּים)と同義

①【新改訳2017】詩篇27篇1節
主は私の光 私の救い。・・・・
②【新改訳2017】イザヤ書49章6節
主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

●主は「主のしもべ」(=イェシュア)を、「国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」とあります。ユダヤ教のラビたちも、光というのはメシアの名前であると知っていました。ですからイェシュアが「わたしは世の光です」と言ったのは、わたしこそそのメシアであるということを言ったことになるのです。「エゴー・エイミ」だけでも、「わたしはある」という神としての自己宣言ですが、それに加えて「わたしは光」であるとは、「わたしこそ神であり、メシアである」という二重の含みがあるのです。そのうえ「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」という宣言は、とんでもないことを言っているのです。

●「世の光」の「世」とは「闇」であって、盲目であり、滅びの中にあることを指摘します。ある一部の人が闇の中にあるというのではなく、世のすべてが闇の中にあり、神の民イスラエルも私たちクリスチャンでさえも、そのたましいは闇の中にあります。その闇から救い出していのちを与えるのは、まことの光しかありません。そのまことの光こそ「わたしだ」とイェシュアは言っているのです。このヨハネ8章12節の短いことばが意味していることはきわめて深淵であり、あまりに奥義的です。「わたしは世の光です」は、小さな子どもでも暗記して言えるかもしれません。しかし単なることばとして知っていることと、その真の意味を悟ることは別です。真意を悟ったなら、パウロのようなことが起こるのです。これまで見えていた目がつぶれ、今まで見えなかったものが見え始めるのです。それがいのちをもたらす光なのです。そのような霊的な光を見る目が、イェシュアのよみがえった霊によって再生されるのです。つまり、「いのちをもたらす光」とは、イェシュアの贖いによって与えられる「いのちを与える霊」と言えるのです。

【新改訳2017】箴言 20章27節
人間の息(=ルーアッハ=霊)は主のともしび。」 
腹の底まで探り出す。
【NKJV】
The spirit of a man is the lamp of the Lord, 
Searching all the inner depths of his heart.
【L.B】
良心は心の中をはっきり照らして、隠れた思いを明るみに出す、神様の光です。

●また、イザヤ書60章には、メシア王国において神がなされることが記されています。

【新改訳2017】イザヤ書60章1~3節
1 「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。
2 見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。
3 国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

●ここでの「光」のスポットは、再臨のメシアが王として統治するエルサレム、あるいは「シオンに住む者たち」に当てられています。なぜそうだと言えるのか。「起きよ。輝け。」(クーミー・オーリー)はそれぞれ2人称女性単数の命令形です。だれに向かって語られた命令かといえば、それはエルサレム(シオン)です。ヘブル語では町は女性形です。「起きよ」と訳される動詞は「立ち上がる、立つ」を意味する「クーム」(קוּם)。ギリシア語では復活用語の「アニステーミ」(ανιστημι)です。また「輝け」と訳された動詞は「オール」(אוֹר)です。この「輝き」は特別な神の光であり、「シャハイナ・グローリー」とも呼ばれます。終わりの日に、メシアが神の栄光の輝きを百パーセント照らし出しますが、そのメシアとかかわるすべてのもの(人、民、国、民族、場所)もその輝きが最高度に回復されるのです。

●「見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる」(2節)。主の光がまばゆいほどにエルサレム(シオン)に当てられるとき、「国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」ようになるのです(3節)。つまり、メシアによってエルサレムは光が照らされるのです。まさにエルサレム(シオン)は全地において中心的な場所となり、多くの者たちが主を礼拝するためにそこに集まるのです。しかしその前には、闇が地をおおうことが、イザヤ書59章にも記されています。その闇は神の民イスラエルの罪のゆえです。19節では「主が激しい流れのように来られ」とあります。しかし原文には「主」ということばはなく、あるのは「ツァル」(צַר)です。それは「仇・敵」の意味です。ですから、そこは「仇が激しい流れのように来る」のです。「その(=激しい流れ)の中で主の息が吹きまくっている」とあります。ここでも、原文では「主の息(ルーアッハ: רוּחַ)が仇を追い立てる」となっています。主の霊が「仇」である反キリストを「追い立てる」ようにして働くということで、これは終わりの日のキリストの再臨前のことが預言されているのです。そして以下のことが実現するのです。

【新改訳2017】イザヤ書 59章20節
「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに。──主のことば。」

●「背きから立ち返る者」とは、「神に立ち返る者」を意味します。それは「イスラエルの残りの者」のことです。しばしば、預言書の中に「ー主のことばー」ということばを目にします。このフレーズは「神の約束に対する保証」を宣言することばで、神がご自分の約束に判を押すようなものです。イェシュアの「わたしは世の光です」との自己宣言は、こうした神のご計画全体を啓示する旧約の預言的背景をもって語られているのです。

3. イェシュアの証しは真実

●「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」という驚くべきことばをイェシュアが語ったときに、パリサイ人はすかさず「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません」と言いました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書8章13~19節
13 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」
14 イエスは彼ら(パリサイ人だけでなく、群衆も含めて)に答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。
15 あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。
16 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです
17 あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。
18 わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」
19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」

●イェシュアの反論は、以下です。
①「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。」(14節)
②「たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。」(16節)
③「わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」(18節)

●イェシュアの証しが真実である根拠は、イェシュアと御父との関係が「相互内在・同時同存」であることに基づいています。このことはすでにヨハネ5章で取り上げました(ヨハネの福音書のエキス:No.9)。しかしこのことはパリサイ人には全く理解できなかったのです。「相互内在」とは、御子のうちに御父がおり、御父のうちに御子がおられるという事実です。御霊もその中にあるのです。これが三一の神のあり方であり、強固な実体です。御子の語ることばは「霊であり」(6:63)とあります。ですから、御子のことばの中に、御父と御霊が内在しておられるのです。三の神がそれぞれ単一で存在していることは決してあり得ないのです。三で一の神なのです。

4.「あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」

【新改訳2017】ヨハネの福音書8章21~30節
21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」
22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」
23 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。
24 それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」
25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。
26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」
27 彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。
28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。
29 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」
30 イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。

●21節で、イェシュアは「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪(複数の罪)の中で死にます」と言っています。24節では「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです」と言い換えられています。また「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言われました。これらのことばはどういう意味でしょうか。

●「わたしが行くところに」ということばはあたかも積極的な表現です。共観福音書の場合は「苦しめられ、殺され、よみがえる」と受動的ですが、ヨハネの福音書のイェシュアの死は積極的です。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」とは、イェシュアの死と復活を通して与えられるいのちの世界について語っているのです。一方、イェシュアは最後の晩餐で弟子たちに対して、「 『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました」(14:28)と言っています。これは、イェシュアが死んだ後に復活して戻って来るという意味です。しかし弟子以外には、イェシュアは現れません。ですから、パリサイ人や群衆に対して「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、(見つけることができずに)、自分の罪(複数の罪)の中で死にます」という厳然たる予告がなされているのです。実際、イェシュアが復活された後の40日間に、イェシュアの顕現に触れた者たちは主の弟子たちのみです。「自分の罪の中で死ぬことになる」とは、主に立ち返ることができないことを意味しています。それは「永遠の死」をもたらすのです。

ベアハリート

「わたしはある」という主の名は、「イェシュアの名」でもあります。それは「昨日も今日も、とこしえに変わることがない」のです(ヘブル13:8)。それは、「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」という世界です。「わたしに従う者」とは「イェシュアの中へと信じる者、イェシュアに信頼する者」です。また、「イェシュアの声を聞き分け、イェシュアに仕える者」でもあります。御父はその人を重んじてくださるのです。ユダヤ教という宗教(すべての宗教)は、「いのちの光を持つ」ことができないストイケイアの宗教体系です。ですから、イェシュアは「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の数々の罪の中で死ぬことになる」と言ったのです。キリスト教であるから安全とは言えないのです。そのことを心に留めたいと思います。

●イェシュアの中へと入り、イェシュアと一つになることなくしては、何の保証もないことが語られているのです。私たちの霊の中で、「シェーム・イェシュア」と呼び求め、イェシュアと一つになること、それが永遠の救いの保証となります。私たちの諸々の罪(偶像礼拝の罪)から救って下さるイェシュアの御名「シェーム・イェシュア」、その名こそイスラエルの民をエジプトの苦しみから救い出し、約束の地であるカナンの地へと導き入れた主であり、私たちを御国に導く方でもあるのです。天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるすべてのものも、みな「すべてに勝る主の御名」をあがめますように。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2024.8.4
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