15.「ヨハネの福音書8章の『アブラハムのわざのしるし』」
15.「ヨハネの福音書8章の『アブラハムのわざのしるし』」
ベレーシート
●今回は、ヨハネの福音書8章31節から終わりまでの内容(29節分)の中で語られたイェシュアのことばを、正しく理解したいと思います。説教のタイトルを「『アブラハムのわざ』のしるし」としました。「アブラハムの信仰」の間違いでは、と思われる方もいるかもしれません。しかしイェシュアは、「私たちの父はアブラハムです」というユダヤ人たちに対して、「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。」(39節)と言われました。「アブラハムのわざを行う」とはどういうことなのか、後ほど明らかにしたいと思いますが、今回の29節分(31~59節)の概要は、以下の通りです。
(1) 31~40節・・イェシュアの本当の弟子こそ本当のアブラハムの子孫。
(2) 41~47節・・イェシュアを信じないユダヤ人の父は悪魔。
(3) 48~59節・・イェシュアこそユダヤ人の先祖。
1.「イェシュアの本当の弟子こそ、本当のアブラハムの子孫」
【新改訳2017】ヨハネの福音書8章31~40節
31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
35 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。
36 ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。
37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。
38 わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」
39 彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。
40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。
●この段落には、「とどまる」「真理」「自由」「罪」「奴隷」「アブラハムのわざを行う」といった重要な語彙が登場しています。
(1)「とどまる」(31節)
●31節に「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」とあります。以前、4章39節で、「その町の多くのサマリア人が、・・・女のことばによって、イエスを信じた」の「イェシュアを信じた」ことを、ギリシア語では「ピステューオー・エイス・ホ・イエースース」(πιστεύω εἰς ὁ Ἰησοῦς)となっていることを学びました。「イェシュアを」の「を」と訳されている「エイス」(εἰς)は、「~の中へ、~の中へと入り込む」ことをも意味する前置詞で、ウイットネス・リー(回復訳)はこれを「イエスの中へと信じる」と一貫して訳していることに触れました。「ピステューオー・エイス」はヨハネ文書とパウロ書簡が主に用いている表現です。「ピステューオー・エイス・ホ・イエースース」は、イェシュアの中へと入り込んで「イェシュアと一つになること」を意味します。それは、イェシュアが死からよみがえり「いのちを与える霊」となって私たちの霊を再生し、その中に内住することなしにはあり得ないかかわりなのです。ここ31節での「ご自分を信じたユダヤ人たち」には「エイス」がありません。ということは、イェシュアの話を聞いて納得し、感心して信じたのであって、イェシュアの語ることばの中へと入り込んで、そこにとどまる(住む)のではなかったようです。信じるとはどういうことかを、イェシュアは「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」と言い換えておられます。
●「とどまる」(メノー:μένω)はヨハネの福音書の鍵語です。回復訳はこれを「住む」、つまり「わたしの言(ことば)の中に住んでいる」と訳しています。「住む」のヘブル語は「シャーハン」(שָׁכַן)で、それに接頭語の「ミ」(מִ)が付くことで「神が住まわれる所」、「ミシュカーン」(מִשְׁכָּן)となり、神と人がともに住む「幕屋」になります。「幕屋」は「神が人のど真ん中に住むこと」を意味します。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(幕屋を張られた)」(ヨハネ1:14)は、そのことを語っています。しかしこのことが実現するのは、死なれたイェシュアが三日目に復活し、夕方弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言った時です。
●ヨハネの福音書はこの出来事を前提として構成され、語られています。イェシュアの語られる「霊であり、いのち」のことば、すなわち「レーマ:ῥῆμα」がそうです。「水がぶどう酒に変わること」「三日で神殿をよみがえらせること」(2章)や「新しく生まれること」「永遠のいのちを持つこと」(3章)、そして「渇くことのない生けるいのちの水」「いのちを与えるパン」などのすべてが、復活のイェシュアがいのちを与える霊として、機能不全に陥っていた私たちの霊を再生し、その中に内住することを啓示し、そのことが「とどまる」ということばで表されます。同様に、ヨハネ15章の「ぶどうの木と枝」のたとえにある「とどまる」もすべて霊の領域の話なのです。
●ユダヤの宗教指導者たちがイェシュアを殺そうとするのは「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです」(37節)とイェシュアは述べています。すなわち、「わたしのことばがあなたがたの中に場所を得ていない(οὐ χωρεῖ ἐν ὑμῖν)」(=根をおろしていない)ということに展開していきます。今回の8章31節の「信じた」には、そうしたことが見られなかったので、「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」とイェシュアは言ったのです。「本当に」と訳された「アレーソース」(ἀληθῶς)は表面的、見せかけでない、神のご計画がその人の中に明確に実現されていることを意味しています。
①「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」(31節)
②「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」(36節)
●御国のたとえ話にもあるように、一時イェシュアを信じたとしても、土の薄い岩地のように根がないために枯れてしまう者もいるのです。また、茨の生える地のように、世にある惑わしのために実を結べない者もいるのです。彼らについて、ヨハネは以下のように述べています。
【新改訳2017】Ⅰヨハネの手紙2章19節
彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、 私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。
●最初から「道端」であるよりも、信じた者が「岩地」や「茨の生える地」であることの方が問題です。彼らは「見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしない」者だからです。その中で、本当に神に選ばれ、召された者は悔い改めに導かれて、主にとどまる者とされます。しかし一時信じた者であってもとどまっていない者は、背教していくのです。
(2)「真理はあなたがたを自由にする」(32~36節)
●イェシュアが「真理はあなたがたを自由にします」と言ったことで、ユダヤ人たちはそのことに「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか」と反応します。イェシュアの語ることば(レーマ)は「霊であり、いのち」です。つまり霊の領域で語っているゆえに彼らには分かりません。なぜなら、彼らはたましいの領域で質問しているからです。また、「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません」というのは嘘です。政治面において、彼らはローマの支配下にありました。また霊的な面において、彼らは何度も偶像礼拝を繰り返してその報いを受けてきました。ですからイェシュアは「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪(単数)を行っている者はみな、罪の奴隷です(原文=罪を行い続けている者はみな、罪の奴隷である)」、続いて「奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです」と言っているのですが、このイェシュアのことばの真意を正しく理解することは彼らにはできませんでした。この真理を正しく理解したのは、使徒パウロでした。
【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章22~31節
22 アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。
23 女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。
24 ここには比喩的な意味があります。この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。
25 このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレム(=神殿ユダヤ教+律法主義)に当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。
26 しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。
27 なぜなら、こう書いてあるからです。「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」
※「子を産まない不妊の女」「産みの苦しみを知らない女」「夫に捨てられた女の子ども」は、イスラエルの民を表すたとえであり、やがての「イスラエルの残りの者」です。彼らはやがて自由の女となり、メシア王国において祝福されます。一方、「夫のある女の子ども」とは異邦の民のたとえです。
28 兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています。
30 しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、
決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」
31 こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。
●「奴隷」が家を継ぐことはできず、必ず出ていくことになります。御子によって自由が与えられるなら、奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもとして神に近づくことができるのです。「真理はあなたがたを自由にする」とは、「御霊によって生まれることは、あなたがたを自由にする」と言い換えられるのです。
(3)「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはず」(37~40節)
●話の焦点が、「アブラハムの子孫」「私たちの父はアブラハム」に移っていきます。イェシュアは「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです」と言います。「アブラハムのわざを行う」とはどういうことなのでしょうか。39節で「私たちの父はアブラハムです」とありますが、これがユダヤ人の宗教指導者たちのプライドでした。しかし洗礼者ヨハネはこう言います。
【新改訳2017】マタイの福音書3章7~9節
7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
●9節の「石ころ」は冠詞付きの「ハーアヴァーニーム」(הָאֲבָנִים)、「子ら」は「バーニーム」(בָּנִים)です。単数の「石」は「エヴェン」(אֶבֶן)、「子」は「ベーン」(בֵּן)と語呂合わせになっており、この二つはイェシュアを指し示しています。それらの複数形は「イェシュアを信じる者たち」を啓示しています。
●ユダヤ人たちが「私たちの父はアブラハムです」と言い、イェシュアが言った「アブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです」ということばの意味を考えたいと思います。
●イェシュアが父のもとで見たこととは、「アブラハムのわざ」すなわち「アブラハムが主をもてなしたこと」です。ですから「アブラハムのわざを行う」とは、アブラハムがしたように、神から遣わされた者を迎え入れ、熱心に歓迎することです。創世記18章のアブラハムのした行為がそのことを物語っています。
【新改訳2017】創世記18章1~8節
1 主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。
2 彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き(רוּץ)、地にひれ伏した(שָׁחָה)。
3 彼は言った。「主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。
4 水を少しばかり持って来させますから、足(רֶגֶל)を洗って(רָחַץ)、この木の下でお休みください(שָׁעַן)。
5 私は食べ物を少し持って参ります。それで元気をつけて、それから旅をお続けください。せっかく、しもべのところをお通りになるのですから。」 彼らは答えた。「あなたの言うとおりにしてください。」
6 アブラハムは、天幕のサラのところに急いで行って(מָהַר)、「早く(מָהַר)、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作りなさい」と言った。
7 そして、アブラハムは牛のところに走って行き(רוּץ)、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早く(מָהַר)それを料理した。
8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、料理した子牛を持って来て、彼らの前に出したので、彼らは食べた。彼自身は木の下で給仕をしていた。
●これがイェシュアのいう「アブラハムのわざ」です。アブラハムのもてなしを特徴づける二つの動詞があります。一つは「走って行き」(2, 7節)と訳された「ルーツ」(רוּץ)、もう一つは「急いで行く、早く、手早く」(6, 6, 7節)と訳された「マーハル」(מָהַר)です。この二つの動詞の初出箇所はどちらもこの箇所です。
●創世記16章では、妻サラの提案によって、女奴隷ハガルを通してイシュマエルが生まれます。人間的に良かれと思ってしたことでしたが、神のみこころではありませんでした。その結果、13年余り、アブラムに主の顕現はありませんでした。創世記17章で、主が再び九十九歳のアブラムに現れ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と新たな歩みを求めます。そしてアブラムからアブラハムへの改名が主によってなされ、「自分の包皮の肉を切り捨てる」という「割礼」を施すことが求められます。割礼の真意とは「肉を切り捨てて、霊によって生きる」という預言的啓示のしるしでした。18章では、そのようなかかわりを与えられたアブラハムの前に、主が人のかたちで突然現れたのです。近づいて来たのではなく、「彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた」(18:2)のです。ここからアブラハムのもてなしが始まります。「走る」「急いで」を意味する動作が顕著です。その動作に、主をもてなそうとする熱心さ、主との交わりの中に生きようとする熱意を見ることができます。足を洗うための水を用意して、木の下で休ませるだけでなく、少しの食事と言いながら、最高の御馳走(三セアの上等の小麦粉をこねて作るパン菓子、おいしそうな子牛の料理、そして凝乳と牛乳)をもってもてなしています。しかもアブラハムは「地にひれ伏した」とあります。「ひれ伏す」の「シャーハー」(שָׁחָה)は礼拝用語です。おそらく、アブラハムの心のこもったもてなしは、どんなにか主を喜ばせた(※「走る(ルーツ:רוּץ)の関連語である「ルーツァー:רָצָה」)に違いありません。
●これが「アブラハムのわざ」なのです。イェシュアは、アブラハムが神の遣いをもてなしたように、わたしを迎えるべきだと言っているのです。ところが「私たちの父はアブラハムだ」と言っているユダヤ人たちが、神から遣わされたイェシュアを殺そうとしていたのです。なぜ殺そうとするのか。それは「あなたがたの父がアブラハムではないから」なのです。ではユダヤ人たちの父とはだれなのか、ここでイェシュアは驚くべきことを言ったのです。
2.「イェシュアを信じないユダヤ人の父は悪魔」
【新改訳2017】ヨハネの福音書8章41~47節
41 あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」
42 イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。
43 あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。
44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。
45 しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。
46 あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
●44節の「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています」とは、辛辣なことばです。なぜユダヤ人たち(宗教指導者たち)は、イェシュアの話の意味が分からないのでしょうか。的外れな会話となってしまうのでしょうか。なぜ真理を語っているのに、信じようとしないのでしょうか。その理由は明確です。それぞれの源泉となる「父」が異なっているからです。イェシュアの視点からすると、人間には二種類しかいないのです。その二種類とは、「神を自分の父とする神の子」か、あるいは「悪魔を自分の父とする悪魔の子」です。イェシュアは悪魔のことを「偽りの父」と言っています。悪魔は「すべての偽りの根源」であることを言い表しています。その根源を表す出来事がありました。それが以下の出来事です。
【新改訳2017】創世記3章1~4節
1 ・・・・蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
●悪魔(サタン)は蛇を使って誘惑します。実に巧妙です。「・・と、神は本当に言われたのですか」といかにも神が本当に言ったのかどうかを疑わせる質問をし、答える女に対して、「決して死にません」と偽りの断定をしたのです。サタンのこのことばを人は信じたことで、神を受信する「霊の」部分が機能不全を起こしたのです。人は完全にサタンに騙され、サタンの偽りの覆いから逃れることが決してできなくなってしまったのです。
●人が「神を父としているか」、それとも「悪魔を父としているか」、それをどうやって見分けるのかと言えば、神の子イェシュアを愛するか愛さないかで分かるとしています。42節に「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです」とある通りです。「愛」とは神と同じヴィジョンを見、同じ使命(ミッション)を連帯することで養い育てられます。同労者意識の中で生まれるのです。私たちはどうでしょうか。神が私たちの父であるならば、イェシュアの語ることばも理解することができ、イェシュアを愛することになるのです。
3.「イェシュアこそユダヤ人の先祖」
【新改訳2017】ヨハネの福音書8章48~59節
48 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」
49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。
むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。
50 わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。
51 まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」
52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。
53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」
54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。
55 あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。
56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」
57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」
58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
59 すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
●最後の段落で最も重要なことは、イェシュアが語ったことば(51, 56, 58節)を「霊」で理解することです。つまり「たましいと霊」を切り分けることです。そのようにして、神のことばを(聖書を)読むのでなければ、イェシュアとユダヤ人たちがそうであったように、以下のように、食い違いが起こってしまうのです。
(1)「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」というイェシュアのことばを、ユダヤ人たちは「アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない」と言って、たましいで理解しています。
(2)「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」というイェシュアのことばを、ユダヤ人たちは「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」と、たましいで理解しています。
(3)「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」というイェシュアのことばを、ユダヤ人たちはたましいで反応し、挙句には石を取ってイェシュアに投げつけようとします。
●「まことに、まことに、あなたがたに言います」のフレーズは、復活の視点で聞き(読み)なさいという合図です。また、イェシュアが語られたことばはすべて、御国の視点で理解すべきです。霊とたましいを切り分けて神のことばを理解することは決して容易なことではありません。しかし、真理であるイェシュアのことばを理解するには、「シェーム・イェシュア」と叫びながら(エレミヤ33:3)、未開拓の地を新たに切り開く(バーラー:בָּרָא)必要があるのです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。
2024.8.18
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