****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

17.「ヨハネの福音書9章の『さばきのしるし』」


17.「ヨハネの福音書9章の『さばきのしるし』」

ベレーシート

●前回に引き続きヨハネの福音書9章から、イェシュアが語られた「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」にある「さばきのしるし」を扱います。ヨハネの福音書で「さばき」(クリマ:κρίμα)という語彙はこの箇所だけですが、このさばきを教えるために8~41節が記されていると言えます。

●前回の箇所で、イェシュアは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になりました。弟子たちが「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」と尋ねたことで、イェシュアは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と答えられました。弟子たちの質問は「善悪の知識の木だけを食べた人」の視点です。しかし「いのちの木であるイェシュア」の答えは「神のわざが現れるため」です。生まれたときから目の見えない人にイェシュアの言われる「神のわざが現れる」とはどういうことか、目の見えない者が見えるようになるとはどういうことかを、パリサイ人との対比によって教えようとしています。

●はじめに前回触れなかった箇所を補填しておきたいと思います。それは4節です。4節の「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます」とは何を意味するのでしょうか。「わたしを遣わされた方のわざ」とは「神のわざ」です。「神のわざが現れる」対象は誰かと言えば、「私たち一人一人」です。イェシュアが「神が遣わされた者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」(6:29)と言われた通りです。人が信じる期間は「昼のうちに」です。「昼のうちに」とは「人がこの世に生きている間に」ということです。反対に「だれも働くことができない夜が来ます」とは「人が死んだ後」です。死んだあとに神のわざが現されることはあり得ないのです。とすれば、人が人として誕生する目的は、イェシュアと出会うためです。それ以上のことを知ろうとするなら、神に対する不可知論に陥ることになります。

1.「安息日」というしるし

【聖書箇所2017】ヨハネの福音書9章8~17節
8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。
13 人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14 イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。
15 こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。
16 すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。
17 そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」彼は「あの方は預言者です」と答えた。

●8~17節で重要な点は、イェシュアが「泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった」という事実です。それは偶然ではなく、預言的戦略であったということです。すでに5章で、「38年も病気にかかっている人」に対して「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と言われた日も安息日でした。そのためユダヤ人たちは、イェシュアを迫害し始めました(16節)。迫害とは「殺そうとすること」です(18節)。今回の「生まれつき目の見えない人」に泥を作って目を開けたのも安息日でした。ですから、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言い、ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言ったことで、彼らの間に分裂が生じたとあります。一方は断罪派の人々、もう一方は慎重派の人々です。後者の人たちがそう言ったのは、単に病気の人を癒やしたのではなく、生まれつき目の見えない人の目を見えるようにした者についてこれまで聞いたことがなかったからです。

●旧約には、盲人の目を見えるようにすることがあるなら、その者こそメシアであるという預言があります。たとえば以下がそうです。

【新改訳2017】イザヤ書35章4~6節
4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
6 そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。

●預言書の中で「見よ」(ヒンネー:הִנֵּה)、「そのとき」(アーズ:אָז)が登場するときは、神の報復のとき、すなわち再臨によるメシア王国のときを意味します。そのとき、「目の見えない者の目は開かれる」とありますから、イェシュアがこの奇蹟をなされたのは御国のデモンストレーションであり、またイェシュア自身がメシアであるという自己宣言をしたことになるのです。

画像の説明

●「開かれる」を意味する「パーカハ」(פָּקַח)も「パータハ」(פָּתַח)も同義です。これは単に身体的な面だけでなく、霊的な目と耳の覆いが取り除かれることによって、神のことばや神の事柄(ご計画、みこころ、みむね、目的)を理解し悟ることを意味します。それが完全に開かれるのはメシアの再臨のときです。エックレーシアの場合は空中再臨(携挙)、旧約の聖徒たち、およびイスラエルの残りの者は地上再臨のときです。メシアが地上再臨されるときは、荒野と砂漠、そして荒地が花を咲かせて神の栄光の輝きが現されるように、盲人や耳や足、そして口の不自由な者たちが解放されることによって神の栄光の輝きが現されます。生涯一度も歩けなかった者でも、メシア王国においては鹿のように飛び跳ねるようなことが起きるのです。単に立ち上がる程度のことではないのです。言葉を話せなかった者が神を喜び賛美するようになるのです。想像し得ないような主のわざが現れるのです。確かな真の希望は終末論的な視点から語られる時に力を持ちます。ですから、神のマスタープランをしっかりと学ぶ必要があるのです。たとえ今、目や耳や足が不自由であったとしても、それで終わることなく、必ずや神のわざが現される時が来ることを信じなければなりません。キリストの復活から神のわざは始まっていますが、それが完全な形で現されるのは、メシア王国においてです。しかもメシア王国において楽しみと喜びをもって神の栄光の輝きを現すことができるのは、この世界の基が据えられる前から、キリストにあって選ばれていた者たちです(エペソ1:4)。ただ、それがだれであるかは私たちには分かりません。キリストのうちにある者だけです。

●イェシュアが「安息日に神のわざをした」のは故意であり、戦略的です。それは「善悪の知識の領域」にある安息日ではなく、「いのちの領域」にある安息日の真意を啓示するためです。それを知るためには、イェシュアが語ったように、イェシュアとくびきをともにすることです。つまりイェシュアの中へと入り込む(身を避ける)こと、そしてイェシュアと一つとなることです。それによって真の安息が与えられます。なぜなら、「人の子(=イェシュア)は安息日の主」(マタイ12:8、マルコ2:28、ルカ6:5)だからです。イェシュアが人になされるすべての良きわざは、人に慰めと安息をもたらすためです。

【新改訳2017】マタイの福音書11章28~30節
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませて(メヌーハー:מְנוּחָה)あげます。
29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすれば、たましいに安らぎ(マルゴーア:מַרְגּוֹעַ)を得ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

●「わたしのもとに来なさい」をヘブル語にすると「ボーウー・エーライ」(בּוֹאוּ אֵלַי)ですが、「ペヌー・エーライ」(פְּנוּ אֵלַי)という訳もあります。後者の「ぺヌー」の語源は「パーナー」(פָּנָה)で、「向き直る、向きを変える、顔を向ける、振り向く」という意味です。これは「悔い改める」の「シューヴ」 (שׁוּב)と同義です。向きを変えることなしに、イェシュアのもとに来ることはあり得ないからです。イェシュアに向きを変えて、イェシュアのもとに来るなら、イェシュアはあなたがたを休ませて(メヌーハー:מְנוּחָה)、たましいに安らぎ(マルゴーア:מַרְגּוֹעַ)を与えてくださるのです。「メヌーハー」も「マルゴーア」も安息用語です。「わたしのくびきを負う」ことをヨハネのことばで表現するなら、「キリストのうちにとどまる(メノー:μένω=ヤーシャヴ:יָשַׁב)」(ヨハネ15:4)となります。これが「イェシュアにある安息」です。これは復活した夕べにイェシュアが弟子たちのところに来て、息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と語ったことで、包括的に実現・成就しています。いのちを与えるイェシュアの霊が私たちのど真ん中に入って来られて、機能不全を起こしていた私たちの霊の残滓を回復し、その中に内住されました。これがマタイの言う「くびきを負う」ことです。そのことによって、人は真の「休み」(メヌーハー:מְנוּחָה)を経験し、たましいの「安らぎ」(マルゴーア:מַרְגּוֹעַ)を得ることができるのです。このために安息日も「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」とイェシュアは語られました(ヨハネ5:17)。

2. 「追放する」「追い出す」を巡って

●イェシュアによって目を開かれた人は、イェシュアのことを「イエスという方」(11節)から「あの方は預言者です」(17節)と言い換え、33節に至っては「あの方は神から出ておられる」と言っています。とはいえ、彼はまだ自分の目でイェシュアを見てはいません。後日、彼は「神から出ておられる方」を実際に見ることになりますが、その前に彼の両親が呼び出され、次に彼自身が呼び出されます。その結果、「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」という逆説的なさばきがもたらされるのです。「見える者が盲目となる」者とは、彼の両親、およびパリサイ人です。

(1) 目が見えるようになった人の両親の「恐れ」

18 ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
19 尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」
20 そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。
21 しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」
22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。
23 そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。

●両親が呼び出されて答えた内容は、「だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう」でした。なぜそのような答え方をしたのかと言えば、「恐れ」のゆえであったことを聖書は記しています。これはとても重要です。彼らが恐れていたのは、「すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた」ことを知っていたからです。「会堂から追放される」ということは、それまで生きていた共同体から追放されることを意味します。「追放する」と能動態で訳されたギリシア語の「アポスナゴーロス」(ἀποσυνάγωγος)は形容詞で「会堂から除名された者、呪いの下に置かれた者」を意味し、共同体のつながりから断たれる者を意味します。「村八分にする」ということばがありますが、それは集団の協調、和を守るために、ある者をのけ者にすること、仲間はずれにすることをみんなで協議して決めることであり、「会堂から追放する」ことも同様です。ここでの「追放する」のへブル語は「ナーダー」(נָדָה)で「追い払う、押し退ける、村八分にする」で、これは「恐れ」を生じさせます。ですから、彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と答えたのです。

●ユダヤ人にとってイェシュアをメシアであると信じることは、ここに見られるように、両親からも見捨てられることを意味します。ユダヤ人の家庭において、イェシュアをメシアであると信じる者が一人起こされると、その家では葬式が出されると言われます。その背景には、クリスチャンがユダヤ人を迫害してきたという歴史的事実と根深い憎しみがあります。ユダヤ人が今もイェシュアを信じることのできない理由には、そうした背景があるからです。使徒パウロも、ユダヤ人からすると「裏切り者」というレッテルが今もなお付けられているのです。当然ながら、裏切り者の手紙など読まれるはずがありません。日本では信仰を持つと世間体のゆえに勘当されるというレベルですが、ユダヤ人の場合は勘当される程度ではなく、死亡レベルの扱いを受けるのだそうです。今日のメシアニック・ジューと言われる人たちの多くは、そのようにして信仰をもっていると言われます。それゆえイェシュアも、以下のように語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書10章34~37節
34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

●34節の「平和ではなく剣をもたらすために来ました」という表現は、一見平和が否定されているように見えます。しかしこれは逆説的な表現で、後者の「剣」の意味をよく理解させるためのヘブル的強調表現です。「剣」の意味が正しく理解されることで、真の平和が理解されるという修辞法です。ここでの平和はあくまでも天の御国における「平和」のことであり、それはメシア王国でもたらされる究極的な祝福の総称です。しかしその平和が実現される前に「剣」がもたらされなければならないのです。その場合の「剣」とは何かといえば、イェシュアが地にもたらす(=投げ込む)「剣」、すなわち「神のことば」です。ヘブル語の「剣」は「ヘレヴ」(חֶרֶב)ですが、その初出は創世記3章24節にあります。

【新改訳2017】創世記 3章24節
こうして神は人を追放し(ガーラシュ:גָּרַשׁ)、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎のをエデンの園の東に置かれた。

●神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置いて、人が勝手にいのちの木に至ることができないようにされました。イェシュアが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われたことばと、「いのちの木への道を守るために、・・輪を描いて回る炎の剣」と対応させて考えるなら、「真理」は「炎の剣」に対応します。その「炎の剣」は、すべての偽りを見抜いて焼き尽くす炎である神のことばであると理解できます。やがて「終わりの日」にエデンの園が回復するとき、そこに住むように定められた者たちは神のことばによって汚れからきよめられた者でなければならないのです。その者にこそ神の祝福の総称である「平和」(シャーローム:שָׁלוֹם)が約束されているのです。その祝福にあずからせるために、イェシュアは「わたしは剣をもたらすために来た」と言っているのです。究極的な真の平和(シャーローム)がもたらされる前に、神と人との誤ったかかわりが神のことばであるさばきの剣によって焼き尽くされ、平和への誤った幻想が断ち切られなければならないのです。そういう意味で、イェシュアが剣をもたらす(=投げ込む)ために来たと理解するなら、最も近しい関係にある「家の者たちがその人の敵となる」(マタイ10:36)ということは容易に理解できるのです。

(2) 目が見えるようになった本人の見解

●「目の見えない人」の両親がユダヤ人たちを恐れて、「だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください」と言ったことで、本人が呼び出されます。

24 そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。
私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
26 彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」
27 彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
28 彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。
29 神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」
30 その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。
31 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
32 盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません
33 あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。

●パリサイ人たちが目の見えなかったその人をもう一度呼び出した理由が見えてきませんが、「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と言って、イェシュアが安息日を守らない「罪人」であることを前提として語っています。互いのやり取りの中で、「あの者については、どこから来たのか知らない。」と言うのに対して、盲目であった人は彼らに対して「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです」と事実を述べています。そのうえで、彼は聖書に語られている真理を述べます。「私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです」と、パリサイ人をやり込める形になりました。この彼のことばが、パリサイ人たちの気に障ったのです。「私たちは知っている」とは、
ユダヤ人として周知のこととして知っていることから始まり、「あの方が神から出ておられるのでなかったら」云々です。これは、「私たちはあの人が罪人であることを知っている」と断言するパリサイ人たちの面子をつぶす発言です。

●旧約で盲人の目を開けた者は誰一人いません。「主は目の見えない者たちの目を開け」(詩146:8,イザヤ35:5)との預言はありますが、その実現は「その日」であり「終わりの時」を意味します。イェシュアは多くの盲人の目を、また耳の聞こえない者の耳も開けています。それはイェシュアがメシアであることの証しであり、イェシュアの奇蹟は御国が来たらこうなるというデモンストレーションでした。

【新改訳2017】マタイの福音書11章5節
目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

●さて、「盲目であったのに、今は見える」と言う彼に対して、パリサイ人たちは「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」(34節)と怒り、「彼を外に追い出した」のです。彼は彼らのプライドを逆なでした結果、ユダヤ人社会という共同体から追放されてしまいました。両親が恐れていたことを彼は恐れなかったゆえに、「追い出された」(エクバッロー: ἐκβάλλω)のです。ヘブル語訳は「ハーダフ」(הָדַף)です。宗教による迫害は、主の定めによるものです。事実、初代教会はユダヤ教というストイケイアによって迫害されました。ヘブル人への手紙の結論は「宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」(13:13)です。「宿営」とは神殿ユダヤ教、律法主義を意味します。そこから出てイェシュアのところに行こうという呼びかけです。

●神によって追放されたり、人によって追い出されたりするのは、神の視点からすれば「いのちであるイェシュアを見出す」ためです。以下の語彙はみな同義語です。
①創世記3章24節の「追放する」は「ガーラシュ」(גָּרַשׁ)
②ヨハネ9章22節の「追放する」は「アポスナゴーゴス」(ἀποσυνάγωγος)、ヘブル訳は「ナーダー」(נָדָה)
③ヨハネ9章34節の「追い出す」は「エクバッロー」(ἐκβάλλω)、ヘブル訳は「ハーダフ」(הָדַף)

3. 「人の子を信じる」 (ベアハリート)

35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
36 その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
37 イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。
39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばき(「クリマ」κρίμα「有罪判決」は、ヨハネでここ一回のみ)''のために
この世に来ました''。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」(=「まさか、私たちも盲人だというのではないでしょうね。」)
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」

●彼はイェシュアによって癒やされましたが、実際に見てはいませんでした。しかし自分の身に起きた事実から、パリサイ人に同意するどころか、一般的真理を曲げませんでした。35節を見ると、イェシュアは追放された者を決して見捨てることはありません。イェシュアの方から見つけ出してくださるのです。それは神のあわれみです。イェシュアは尋ねます。「あなたは人の子を信じますか」。その人が「その人はどなたですか」と尋ねると、「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です」。イェシュアによって目が開かれた者は、このとき初めてイェシュアを見、そして礼拝したのです。信仰は個人的(personal)です。「人の子」とはイェシュアのメシア宣言です。「人の子を信じる」とは「メシアであるイェシュアの中へと信じる」ことでイェシュアと一体となるということです。そのかかわりのすばらしさが、10章にある「羊飼いと羊のかかわりのたとえ」でより明らかにされます。

●最後に、イェシュアの忠告に心を留めたいと思います。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録3章18~19節
18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい
19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

●「目に塗る目薬を買う」とはどういうことでしょうか。すでに霊の目は開かれていますが、「自分は見えている」と言い張ることなく、再度「いのちを与える霊によって生きること」を選び取ることです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2024.9.15
a:824 t:1 y:0

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