****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

18.「ヨハネの福音書10章の『羊の囲いの門のしるし』」


17.「ヨハネの福音書10章の『羊の囲いの門のしるし』」

ベレーシート

●9章で「生まれつきの盲目の人」をイェシュアは癒やされました。そこで人々が彼をパリサイ人たちのところに連れて行ったことで、パリサイ人たちの間に以下のように分裂が生じたとあります(16節)。ある者たちは「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」、ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」。

●次いで10章にも、ユダヤ人たちの間で再び分裂が生じています(19~21節)。多くの人は、「彼は悪霊につかれておかしくなっている。どうしてあなたがたは、彼の言うことを聞くのか。」ほかの者たちは、「これは悪霊につかれた人のことばではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」

●9章と10章はつながっています。二つの分裂の記述の間にイェシュアが語られた「羊の囲いの門のたとえ話(比喩)」が置かれています。ですが、彼らにはこの話が分からなかったとあります(10:6)。そのため再びイェシュアが語るのですが、いずれも「まことに、まことに、あなたがたに言います」(10:1, 7)というフレーズをもって語っています。このフレーズは前にも述べているように、イェシュアの復活の視点から理解する必要があります。ここで語られている「門」の話は、実に深い話なのです。

1. わたしは羊たちの門です

●まず、10章1~6節を見てみましょう。

【新改訳2017】ヨハネの福音書10章1~6節
1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。

●イェシュアが語ったたとえ話の中の比喩について整理してみましょう。

(1)「羊たち」・イスラエルの民、あるいは神の民を表す。
(2)「囲い」・・冠詞付きの単数で律法(モーセの律法)。
(3)「」・・・囲いに入れるというよりは、囲いから羊を外に出す門。冠詞付き単数でイェシュアの十字架の死と復活
(4)「牧者」・「ポイメーン:ποιμήν/ローエ:רֹעֶה」単数・御子イェシュア
(5)「門番」・・「スュローロス:θυρωρός」単数・ユダヤ人の聖書(タナフ: תַּנַךְ)。
(6)「盗人、強盗」(ほかのところを乗り越えて入って来る者)
「盗人」は「クレプテース:κλέπτης/ガンナーヴ:גַּנָּב」。
「強盗」は「レーステース:λῃστής/パーリーツ: פָּרִיץ(人殺し)。あるいは、ガーゼール:גָּזֵל (略奪)」。いずれも単数で、以下の二つの見解が含まれる。
①ユダヤ教の宗教指導者たち(ストイケイアとしての宗教体系)

a. 偽メシア
【新改訳2017】使徒5章36~37節
36 先ごろテウダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどになりました。しかし彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、跡形もなくなりました。
37 彼の後、住民登録の時に、ガリラヤ人のユダが立ち上がり、民をそそのかして反乱を起こしましたが、彼も滅び、彼に従った者たちもみな散らされてしまいました。
b. 終わりの日の大患難に現れる反キリスト偽預言者

●これらの比喩を正しく理解するために、一つずつ説明します。

【新改訳2017】ヨハネの福音書10章1~2節
1 ・・羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。

①「羊たち」は「プロバタ: προβάτα」で複数形です。ヨハネの福音書で「羊」は39回使われていますが、そのうちの4回は単数形で、35回は複数形で使われています。「羊たち」は神の民を表します。「囲いに属する羊たち」はイスラエルの民を指し、「囲いに属さない羊たち」は異邦人の神の民を指します。1~15節は「囲いに属する羊たち」について語られ、16節以降は「囲いに属さない羊たち」のことが語られています。

②「囲い」(羊のおり)は冠詞付き「アウレー:αὐλή」、へブル語は「ミフラー: מִכְלָא」で「監禁された所」の意味になります。同じ「囲い・おり」を意味する「ミフラー:מִכְלָה」も同義です。その「ミフラー:מִכְלָה」の語源「カーラー:כָּלָה」は「完成する、滅亡する」という両義性を有する語彙となります。キリストの鍵が入るなら「完成する」という意味になりますが、キリストの鍵が入らなければ「滅び失せる」という意味になります。冠詞付きの「囲い」とは、神の「律法」(トーラー)を指す比喩です。

③「」は「スュラ」(θύρα)。「門」を意味するヘブル語の語彙は数多くありますが、ここでは「シャアル」(שַׁעַר)。「門」はイェシュアの十字架の死と復活の比喩です。

④「門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗」にある「盗人であり強盗」とは、神殿ユダヤ教、律法主義の宗教指導者たちを意味する比喩です。あるいは偽メシア反キリストです。

⑤「牧者」は死と復活を通ったイェシュアの比喩です。

●「門から入るのは、羊たちの牧者(ローエ:רֹעֶה)」。その「牧者」は神から遣わされた御子イェシュアのことで、そのことが以下の詩篇によって預言されています。

【新改訳2017】詩篇78篇70~72節
70 主は しもべダビデ(=イェシュア・メシアの予表)を選び 羊の囲い(מִכְלָה)から召し出された。
71 乳を飲ませる雌羊の番から 彼を連れて来て 御民ヤコブを ご自分のゆずりの民イスラエルを 牧するようにされた。
72 彼は 全き心で彼らを牧し 英知の手で彼らを導いた。

●詩篇78篇の鍵語は「昔からの謎」(2節)です。それは「世界の基が据えられたときから隠されていること」(マタイ13:35)です。その内実は、神と神によって選ばれた民(イスラエル)との関係についてです。イスラエルの民は神がなしてくださった驚くべき恵みを忘れ、神に背き、幾度も神を無視しようとしてきたにもかかわらず、神は彼らに見切りをつけることなく、見捨てることなく、歴史を貫いて、忍耐とあわれみをもってかかわってくださるということ。これが「昔からの謎」に他なりません。表題にも「アサフのマスキール」とあります。マスキールの語源は「サーハル」(שָׂכַל)で「悟る」という意味ですが、その悟りとは「失敗からの悟り」を意味します。失敗の経験を通して、真の牧者であるキリストの中へと信じる信仰に至ることを知るための悟りです。ですから、イスラエルの民を何と情けない民なのかと考えてはならないのです。使徒パウロはイスラエルの失敗について、「これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。・・ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリ10:6, 12)と私たちに忠告しています。

●ヨハネの福音書10章3~5節に目を移しましょう。

3 門番(שֹׁמֵר)は牧者のために(הַשָּׁעַר)を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します
4 羊たちをみな外に出す(ἐκβάλλω)と、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」

●3節で「門番」という比喩が登場します。「門番」はイェシュアを証しする「タナフ」の比喩です。それが「牧者のために門を開き」とあります。「門を開く」ことと「羊たちを囲いから連れ出す」こととは同義です。そこでは、イェシュアが羊であるイスラエルの民を律法という囲いから「連れ出す」、「みな外に出す」ことが強調されています。そのために牧者は囲いの中に入らなければなりません。タナフは真の牧者によって開かれることが定まっているのです。そのようにして、「囲いにいる羊」(イスラエルの民)は牧者であるイェシュアについて行くのです。これはイスラエルに対する民族的な預言であり、この預言が実現・成就するのは将来のことで、「イスラエルの残りの者」に成就します。それに、復活したイェシュアから息を吹きかけられて聖霊を受け取った「エックレーシア」と、「イスラエルの残りの者」によって生まれる「男の子」(囲いにはいない、数えきれない大勢の異邦人たち「ゴーイム:גּוֹיִם」)が加わります。

●キリストが来られるまで、囲いの中にいる選びの民であるイスラエルの羊たちは、律法によって養育されていました。しかし律法は、キリストへ導く養育係(パイダゴーゴス:παιδαγωγός /オムナー:אָמְנָה)に過ぎません。ちなみに、ヘブル語の「オムナー」(אָמְנָה)のニュアンスは、以下の聖句で理解できます。

【新改訳2017】エステル記 2章20節
エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、自分の生まれも自分の民族も明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていた(オムナー: אָמְנָה)ときと同じように、彼の命令に従っていた

●エステルがモルデカイの命令に従っていたのは、自分の生まれと自分の民族をペルシアの王に明かす時までです。彼女がはじめて自分の素性を明かしたのは、自分が設けた宴会の席で、ハマンによるユダヤ人絶滅計略を命がけで王に訴えた時です。これは、来たるべき信仰が啓示されるまで、イスラエルの民が律法の下で監視されていたことの型です。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章23~26節
23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され(フルーレオー:φρουρέωの未完了受動態)、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました(スンクレイオー:συγκλείωの分詞現受動態)。
24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません
26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

●「律法が目指すものはキリストです」(ローマ10:4)とあるように、律法はキリストが入ることで完成するのです。そのキリストが来られたことで、律法は包括的に完成されたのです。あとは、そのことを信じる者が義とされて実体化されるのです。つまり包括的(客観的)事実が主観的な救いをもたらすということです。

●その羊の囲いの中に、神殿ユダヤ教のサドカイ人や律法主義のパリサイ人といった宗教指導者たちが門を通らないで入って来て、悪霊たちのさまざまな教えや体系の中に羊たちを閉じ込めたのです。安息日の規定や割礼、食物規定がその顕著な例です。神殿ユダヤ教、律法主義の指導者たちをイェシュアは盗人や強盗と言っています。しかも、彼らの父は悪魔であるとも言っています(ヨハネ8:44)。そこから「連れ出す」「みな外に出す」のが、羊の門である、十字架の死と復活を通られたイェシュアなのです。「牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです」とあります。このことがまず実現したのが、初代教会の主にある人々です。彼らは「宿営の外に出て、みもと(イェシュアのところ)に」行った者たちです(ヘブル13:13)。「宿営」とは、神殿ユダヤ教、律法主義というストイケイアです。そこから出ることは人の力ではできません。「羊の門である死と復活を通られたイェシュア」こそが、一人一人の名を呼んで連れ出してくださるのです。そのようにして羊であるイスラエルの民も、接ぎ木された私たちも、いのちに与るのです。

●律法が「養育係」としての役割を持っているということは、以下の三つの視点を理解する必要があります。

①最初のアダムの罪の結果、人は律法を守る力が完全になくなってしまっているということ。
②神のご計画全体はキリストの贖いの上にのみ立てられており、キリストによってのみ実現されるということ。
③神は、キリストの中へと信じる者にのみ祝福を与えられるということ。

6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。

●イェシュアのたとえ話は「御国の福音」、つまり神のご計画とみこころ、みむねと目的についての話であるため、パリサイ人たちには理解できませんでした。今日のクリスチャンにも、ユダヤ人にも、いまだ理解されてはいません。メシアなる王がユダヤ人を民族的に再創造するために、今は神が隠しておられるのです。

7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

●イェシュアの話が理解されなかったため、イェシュアは再度、「わたしは羊たちの門です」と語られます。8節で「わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です」と語られたにもかかわらず、「羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした」とあるのは預言的なことばです。その「羊たち」とは、後にイェシュアが死からよみがえられ、昇天・着座された後に与えられた「イェシュアの御名」(シェーム・イェシュア)を呼ぶ者たちです。そして、すべてに勝る御名を御父から与えられたイェシュアによって、御座から聖霊のバプテスマを注がれて満たされた(ピンプレーミされた)弟子たちです。それゆえ、初代教会の羊たちは死を恐れることのない者(=イェシュアの証人)たちでした。

●ユダヤ当局からイェシュアの御名によって語ったり教えたりしてはならないと命じられたにもかかわらず、弟子たちは「彼らの言うことを聞きませんでした」。「彼ら」とはイェシュアの前に来た者たち、イェシュアの初臨に存在した者たちであり、「みな、盗人であり強盗」です。彼らこそ神殿ユダヤ教、律法主義者たちです。エックレーシアの最初の殉教者ステパノは、イェシュアの羊の模範的な羊です。彼の名前が「ステパノ」であるのは、神の必然です。「ステパノ」(ステファノス:στέφανος)は「冠」という意味です。彼は使徒ではありませんでしたが、信仰と聖霊に満ちた人であり、殉教をもってイェシュアを証しして「いのちの冠」を受けました。

●再度、イェシュアは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」と語っています。囲いという律法から連れ出された者たちはだれであっても、イェシュアという門を通って入るなら救われるとはどういうことでしょうか。それは、イェシュアの中へと身を避ける(逃げ込む)ことによって、イェシュアと一つとなるということです。換言するなら、人の霊とイェシュアの霊がミングリングすることで、新創造されることです。これが「キリストにある包括的な新創造」、New Creature(ニュー・クリーチャー)であり、その事実を聞いて信じる者には、その包括的事実が実体化するのです。

●また、9節に「出たり入ったりして」とあります。それは門を出たり入ったりすることではありません。これは、口語訳では「出入りする」と訳されますが、それは主が神の民をそのすべての生活領域にわたって、「今よりとこしえまでも守られる」ことを意味します。

【新改訳2017】詩篇121篇8節
主はあなたを行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。

●「出たり入ったりして」とは、私たち(王なる祭司たち)のすべての営み、務め、あるいは神から与えられている使命遂行のためのすべての力が保障されることばなのです。

2. わたしは良い牧者です

【新改訳2017】ヨハネの福音書10章11~21節
11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます
12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます
16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」
19 これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。
20 彼らのうちの多くの人が言った。「彼は悪霊につかれておかしくなっている。どうしてあなたがたは、彼の言うことを聞くのか。」
21 ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」

●11~15節では、「わたしは良い牧者です」と「良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます(=わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます)」というフレーズが二度にわたって語られ、強調されます。共観福音書では、受難と死が受け身的に表されますが、ヨハネの福音書では主体的・自発的・積極的に表されます。

●エゼキエル書は、イスラエルの民を回復してくれる「良い牧者」が現れることを預言しています。

【新改訳2017】エゼキエル書34章2~6節、11~16節、23~24節
2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。「神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。
3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。
4 弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。
5 彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。
6 わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。

11 まことに、神である主はこう言われる。
見よ(הִנֵּה)。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す
12 牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す
13 わたしは諸国の民の中から彼らを導き出し、国々から彼らを集め、彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその地のすべての居住地で彼らを養う
14 わたしは良い牧草地で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らの牧場となる。彼らはその良い牧場に伏し、イスラエルの山々の肥えた牧草地で養われる。
15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる──神である主のことば──。
16 わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う

23 わたしは、彼らを牧する一人の牧者わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる
24 主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは主である。わたしが語る。

●23節の「一人の牧者」「わたしのしもべダビデ」こそが、メシア・イェシュアです。イスラエルの回復のためには真の牧者が必要です。1~6節は「イスラエルの牧者たち」、つまり指導者たちに羊に対する責任を託したにもかかわらず、自分たちの利益を優先してその責任を果たさなかったために、そのことが非難されています。民の上に置かれた権威ある者たちは神の代理者として民の利益が損なわれないように、またその必要が満たされるように、民の世話をする義務がありました。しかし現実は、民の幸いを求める代わりに、むしろ彼らを搾取したのです。羊たちを養うのではなく、自らを肥やしたのです。それゆえ、イスラエルの民は近隣諸国の餌食となり、敵の攻撃の結果、地の全面に散らされてしまったのでした。そこで、主なる神はイスラエルの民を再び集めるために、主ご自身が牧者となることを預言したのがこの34章です。

●11~16節には「一人の牧者」がなしてくださる数多くの恩寵用語があふれています。エゼキエル書34章のこの預言は再臨のイェシュアによって実現します。新約の福音書にははっきりとイェシュアの来臨の目的が記されています。イェシュアはこう言われました。「わたしは、イスラエルの家の失われた(=滅びた)羊たち以外のところには、遣わされていません。」(マタイ15:24)と。換言すれば、イェシュアはイスラエルの家の失われた羊のために遣わされたということです。私たちは置換神学の影響を強く受けているため、「イスラエルの家」を文字通りではなく、個人的な自分に置き換えて理解してしまっています。文字通り、神の約束された「イスラエルの回復」の成就がなされなければ、神のみことばの信憑性は希薄なものとなってしまいます。

●メシアニック・ジューの神学者でデビット・ルドルフという方がいます。彼は、個人の救いをあまりに強調する現在の福音派の問題点について指摘しています。個人の決意と個人の救済という視点からだけメッセージを語ると、(一世代前の人にしか分からないたとえかも知れませんが)「傷ついたレコードのように、創世記からヨハネの福音書3章16節に針が飛ぶ」と言っています。そうではなく、むしろイスラエルを中心とする「物語」として福音全体を語ることの重要性を強調しています。聖書は、神のご計画とその成就があくまでもイスラエルを基軸として展開します。そこに私たち異邦人が接ぎ木されるのです。そのことが、今回のヨハネのテキストでは10章16節に明確に記されています。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」と、神のご計画の全貌を預言しています。「この囲いに属さないほかの羊たち」とは、イスラエルではなく、異邦人の神の民です。

●最後に、少し戻りますが、ヨハネ10章12節に「牧者でない雇い人」というフレーズが登場します。「牧者」と「牧師」が同じ意味だとしたら大変です。「良い牧者」は羊のことをいつも心にかけて、羊のためにいのちを捨てるからです。「サラリーマン牧師」は「雇人」です。「牧師」であろうと「牧仕」であろうと、「雇人」でないとしたらどのように考えれば良いのでしょうか。使徒ペテロの以下の勧めを肝に銘じたいと思います。

【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙5章1~4節
1 私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。
2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。
3 割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
4 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。

●ここではエックレーシアにおける「長老」に対して語られています。ペテロも自分を「長老の一人」と考えていたようです。私たちは、これを「王なる祭司」の一人一人に当てはまる教えとして受け止めたいと思います。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2024.9.29
a:1194 t:1 y:0

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