****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

2章1~3節


創世記2章1~3節

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【新改訳2017】
1 こうして天と地とその万象が完成した。
2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。


  • 神は「造られたもの」に対する豊かな配慮の備えを賦与された後で、「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。」として神の創造の第六日は終わっています。ところが、第七日は第一日から第六日とは区別された特別な日として扱われています。創造のわざは第六日で終わったのです。第七日目は神が安息された日なのです。このことは神の永遠のご計画において何を意味しているのでしょうか。

1. 神の安息としての「第七日」(The 7th day)

(1) 六日間の神の創造のみわざ

  • ここで神の六日間の創造のみわざを見てみましょう。それぞれ、「第〇日」というフレーズで区切られています。

画像の説明

  • 上の図から分かることは、第一日から第三日までは静的世界の創造であるのに対して、第四から第六日までは、静的世界にいのちのあるものが満たされている動的世界が創造されているのが特徴です。換言するなら、器が先に造られ、その後にその器を満たすものが造られていると言えます。

(2) 第七日の神の安息

  • 1節の「完成した」は「カーラー」(כָּלָה)の3人称未完了形、複数受動態の「イェフッルー」(יְכֻלּוּ)。第七日目に、神はすべてのわざを「やめられた」(休まれた、止めた、安息した)のです。「やめられた」は「シャーヴァット」שָׁבַתです(=通例「シャバット」と表記されることが多い)。それは、オーケストラの楽曲でいう「ゲネラルポーズ」(全休止)を意味します。そして神はその日を「祝福し」、「聖なるものとされた」(「カーダシュ」קָדַשׁの未完了形ピエル態)のです。
  • 「カーダシュ」は特別に神のものとして「取り分ける」ことを意味する「聖別(=分離)」の概念です。つまり、第七日目はこれまでの六日間とは全く異なる日であるということです。そのことを「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた」と表現しているのです。六日間の創造の作業に連続するのではなく、それとは切り離された日ということで、換言するなら、六日間のすべての働きが目指すべき目的とする日なのです。「聖」は、区別することをよしとされる神の本質にふれる語彙と言えるのです。
  • ちなみに、「七」という数は、聖書においては「完全数」です。天地創造全体が七日間であるだけでなく、創世記1章は神様の創造の御業を「七」という数字の枠で描いているようにも見えます。たとえば、1章1節の「初めに、神が天と地を創造した」を原文で見ると、「ベレーシート・バーラー・エローヒーム・エット・ハッシャーマイム・ヴェエット・ハーアーレツ」というように、七つの言葉から成っています。2節の語数は七の倍数である14の言葉から成っており、七日目の創造の完成を告げる2章1~3節の語数は七の5倍の35です。また、創造の七日間全体で使われている「神」という語は35回、「地」は七の3倍の21回が使われています。そして、「神はそれを見て良しとされた」と言われる言葉が回。このように、「七」という数字は神の世界における完全や成就、完璧な秩序と調和を表わしているのです。それゆえ、「見よ。それは非常に良かった」ということになるのです。

(3) なにゆえに神は創造のわざをやめられた(安息された)のか

  • なぜ神が七日目にやめられた(休まれた)のでしょうか。それを一言で言うならば、神が人間との交わりに入る日として取り分けるためです。つまり、他の一切のことに心奪われることなく、ご自分に似せて造られた人間に対して並々ならぬ愛を十分に注ぐためです。その日は人間にとっては祝福に満たされた聖なる特別な時となり、真の安息を味わう時でもあるのです。「神がすべてのわざをやめられた」という表現は、神が疲れて休まれたという意味ではなく、神の創造のわざをひとたび中止・中断されたということです。「中止された」「中断された」というのは含みがあります。それは永遠の安息に向けて、一時的に中断されたのであって、再び、神の創造のわざがなされること(新天新地)が予知されているからです。創世記1章における神の創造には、「夕があり、朝があった。第〇日」という定式でそれぞれの創造の日が閉じられています。ところが「第七日」だけは「夕があり、朝があった。」というフレーズがありません。この「夕があり、朝があった。」というフレーズは、始まりがあって終わりがあることを示唆しています。しかし、第七日にはそれがないということは、終わりが閉じられていないことを意味しているのです。ということは、ヘブル人への手紙の作者が言うように、まだ「神の安息」に入るチャンスが残されていることを意味しているのです。そのことを私たちに教えるために、神は「安息日」を制定されたのです。

【新共同訳】創世紀2:1~3
1 天地万物は完成された。
2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった
3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

  • 【新改訳2017】には「安息という訳語はなく「やめられた」と訳しています。しかし新共同訳では「安息なさった」と訳しています。このことが「安息日」の制定の聖書的根拠となっています。

2. 「安息日」の制定が意味すること

(1) それは天地創造の記念日として想起されること

  • 「安息日」の戒めは「十戒」の中の第四戒に定められていますが、旧約時代には神の民イスラエルによって、第七日が安息日として守られていました。しかしこの安息日の制定は、イスラエルの民(ユダヤ人)の先祖であるアブラハム以前であり、その対象もイェシュアが「安息日は人のためにある」と言っているように、ユダヤ人のためだけではなく、神によって創造された人類全体に対する戒めとして語られています。神の創造において第七日に神が人を祝福し、神と人とが交わる聖なる日として、特別に取り分けられた日、それが安息日の聖書的根拠です。したがって、安息日は天地創造の記念日であると同時に、神のマスタープランの最終段階である新天新地における永遠の安息の型(ひな型)でもあるのです。
  • 第七日ではなく、第一日(週の初めとしての日曜日)を安息日として神を礼拝するのは聖書の教えとは異なっているのです。今日、教会は(カトリックもプロテスタントも)、キリストの復活を記念する日曜日を安息日として礼拝を行っていますが、実はそれには聖書的根拠がないのです。このことはセブンスデー・アドベンティストと呼ばれる人たちが強く主張していることであり、私もその主張が真理であると信じます。しかしその真理を実現するためには多くの知識が求められます。ここでは安息日は教会が誕生する以前に制定されていたという事実を認めなければなりません。ちなみに、主が制定された聖餐は主の十字架の死と復活を想起し、やがて再び来られる花婿を待ち望むものですが、必ずしも安息日に、あるいは主日礼拝でそれをするようにとは定められてはいません。それは聖書ではなく、教会(カトリック教会)が決めたことなのです。プロテスタントもそれに倣っていますが、聖餐を執行するのはいつでも可能なのです。
  • しかし安息日の制定の目的は、あくまでも神の天地創造の記念日として、第七日にそれを想起することにあります。つまりこの日を覚えることは、創造主である神への信仰を絶えず確認しながら生活をすると同時に、メシア王国、およびその先にある新天新地における永遠の安息の到来を待ち望むことでもあるのです。その信仰の確証的行為こそ安息日の制定の意義です。こうして見ると、安息日をヘブル的視点から見るなら、今日の私たちの理解とは異なってくるのです。教会の歴史において、ある時期から教会は第七日の安息日を第一日の日曜日に移してしまいました。主の安息日とイェシュアの十字架の死と復活を記念し想起することとは別の事柄なのですが、このあたりのことはもっと時間をかけて学ぶ必要があります。

(2) 主の例祭の冒頭に位置づけられている第七日目

  • レビ記23章は主の例祭について記されています。主の例祭には神のご計画のマスタープランが啓示されています。主の例祭には、①「過越の祭り」②「種なしパンの祭り」③「初穂の祭り」④「七週の祭り」⑤「ラッパの祭り」⑥「贖罪日」⑦「仮庵の祭り」のことを言います。すでに、①~④はイェシュアの初臨によってすでに実現されています。しかし後の⑤~⑦はイェシュアの再臨によって完全に実現されます。しかし「主の安息日」が、それらの最初に位置づけられているのには理由があります。その理由とは、レビ記23章では「主の安息日」についての記述が以下のようにわずか1節(23:3)だけです。しかし、そこには神のマスタープランが目指す最終目的が示されているのです。

【新改訳2017】レビ記23章3節
六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても【主】の安息日である。


  • ヘブル語の修辞法では、しばしば結論的な事柄が最初に置かれて(啓示されて)います。この修辞法は聖書のある限定された部分に限らず、聖書全体(旧新約聖書)においても然りです。「わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。」(イザヤ46:10)とあるように、神のご計画における最終目的は、創世記1章1節~2章3節の中に啓示されていると考えられます。
  • レビ記23章3節に定められている「第七日」は、「全き休みの安息」です。そのヘブル語表記は「シャバット・シャバートーン」(שַׁבַּת שַׁבָּתוֹן)です。同じ言葉を重ねることで意味を強調するヘブル語の特有の表現です。また「第七日」は「聖なる会合の日」です。そのヘブル語表記は「ミクラー・コーデシュ」(מִקְרָא־קֹדֶשׁ)で、「会合」(ミクラー)は「集会」を意味します。つまり、主の安息日は個人的な日として見なされていません。あくまでも安息日はコミュニオン(交わり)の日なのです。

3. 主の安息日を規定する三つの語彙

  • 創世記2章1~3節に戻って、安息日の制定における重要な三つのキーワードに注目したいと思います。三つのキーワードとは「祝福した」「聖とした」「やめられた」という三つの動詞です。
三つの動詞.JPG

(1) 「祝福した」(「バーラフ」בָּרַךְ)

  • 「主の安息日」は、本来、主が人々を祝福する日です。そこには人に対する主の愛の配慮と保護があります。エジプトから救い出されたイスラエルの民は荒野において六日間、目に見える「マナ」を食べましたが、七日目にはマナは降りませんでした。七日目には目に見えない神との交わりという「天からのパン」があるからです。それは私たちを永遠に生かすことのできる天からのパン、すなわちキリストご自身との交わりです。
  • イェシュアはサタンに対して「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある」と言って、サタンの誘惑を退けましたが、天の御国においては、人は朽ちないからだが与えられるため、目に見えるパン(マナ)は必要ではなくなります。むしろそれに代わって永遠に人を生かす神の口から出ることばによって生きることが定められています。とは言え、回復されたエデンでは食べる楽しみもあるのです(黙示録22:2)。

(2) 「聖別した」(「カーダシュ」קָדַשׁ)

  • 「聖別する」とは、本来、神に属するものとそうでないものとを「取り分ける、区別する」「分離する」という意味です。その目的はより強い神の臨在にふれることと関係しています。エデンの園では常に神との交わりが可能でした。そこではいつも神の臨在にふれていたのです。その「型」であるモーセの幕屋の建造の目的は、主がご自身の民の中に住むことでした(出25:8)。聖所を意味する「ハ・ミシュカーン」(הַמִּשְׁכָּן)は「住む」(「シャーハン」שָׁכַן)から派生した語です。イェシュアは「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と約束されました。それはいつでも可能だと思いますが、「安息日」に聖なる会合として集まるところには、主の臨在の特別な現われがあると信じます。神の永遠のご計画では、神と人とが永遠に共に住むという中で、主の臨在(シャハイナ・グローリー)が当たり前になるのです。
  • 十戒の中では「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」とあります。それは「安息日」を週の中で、特に意識して「区別する」ことを意味しています。それは「覚える」ためです。この「覚える」(「ザーハル」זָכַר)は、「思い起こす」という意味ですが、何を思い起こすのかといえば、それは神の究極の目的を思い起こすのです。それは、イェシュアの十字架によって贖われ、罪を赦されて神の子どもとされたことだけでなく、何のためにそうされたのか、その究極的な目的がすでに聖書の中に示されているのですから、その目的を思い起こすのだと信じます。十字架による「神の恵みの福音」を思い起こすだけでは不十分です。加えて「御国の福音」、つまり神のご計画の究極的なみこころ、御旨、目的を思い起こさなければなりません。それが「安息日」が制定されていることの真意なのです。

(3) 「やめられた(休んだ)」(「シャーヴァット」שָׁבַת)

  • 神との交わりには、神の十全なる、完全な、永遠のシャーロームがもたらされます。ヘブル語には「休む」という意味を持つ「シャーヴァット」の他に、「ヌーアッハ」(נוּחַ)という語彙があります。この「ヌーアッハ」は単に何もしないでいるということではなく、主とともに、主が置いてくださったところで憩うこと、主が備えて下さった祝福を十全に楽しむことを意味します。この「ヌーアッハ」(נוּחַ)が聖書で最初に使われている箇所は、エデンの園に主が人を「置かれた」という形で使われています。単にある場所に置かれたというだけでは意味がありません。主はそこで人にエデンを耕し、そこを守ることを命じています。特に、エデンの園が回復された後には、そこを「耕す」ということが課題となります。つまり、そのエデンのすばらしさを味わい、楽しみ、喜びをもって主を礼拝することを意味しています。それが「ヌーアッハ」の意味であり、祭司的な務めを意味します。その名詞の「メヌーハー」(מְנוּחָה)も同様の意味となります。詩篇23篇2節「主は私を緑の牧場に伏させ、いこい(「メヌーハー」מְנוּחָה)の水のほとりに伴われます」とダビデは歌いました。「メヌーハー」は「休息」「安息」を意味しますが、それはダビデが永遠の祝福として約束されている主の安息を預言したものと言えます。そこに主が伴ってくださるのです。
  • 有名なイェシュアの招きのことばがあります。

    【新改訳2017】マタイの福音書11章28~29節
    28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます
    29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

  • ヘブル語の聖書によれば、28節の「休ませて」には「メヌーハー」(מְנוּחָה)が、29節の「安らぎ」には同義語の「マルゴーア」(מַרְגּוֹעַ)が使われています(動詞は「ラーガ」רָגַע)。イェシュアの招きのことばには御国における永遠の休息が込められていたのです。

ベアハリート

三つの回復.JPG
  • このように、創世記2章には主の安息のすべてが啓示されています。創世記2章には神のご計画における回復の全貌を見ることができます。2章全体にも三つのキーワードがあります。その三つとは「安息日の回復」「エデンの園の回復」「結婚の奥義」です。これら三つは「主の安息」を制定する三つの要素と同様、相補的な関係にあります。つまり、どこから入っても神の究極的な目的に辿りつくからです。「エデンの園の回復」は空間的視点、「安息日の回復」は時間的視点、そして「結婚の奥義」は関係的視点から神のご計画を啓示しています。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という主の命令は神のご計画と深いかかわりがあるのです。私たちが主の安息の制定の真意を正しく理解するならば、安息日に集まる「聖なる会合」は大いなる希望と喜びの場となるに違いありません。主の臨在を象徴する栄光の「雲(複数)」が礼拝に集う者たちの中に満ち溢れると信じます。
  • 主の安息日の制定は、エデンの園において(まだ人が罪を犯す前に、まだユダヤ人が存在する前に)、結婚の制度とともに定められました。つまり、全人類のために神が定められたものです。それゆえ、「安息日は人のためにあるのであり、人が安息日のためにあるのではない」のです。これら三つの回復こそ、イェシュアがこの世に来られて宣べ伝えられた「御国の福音」と言えないでしょうか。
    「人の子は安息日にも主」なのです(マルコ2:28)。

2018.12.1

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