****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

2章15節


創世記2章15節

【新改訳2017】
神である【主】は人を連れて来て(לָקַח)、エデンの園に置き(נוּחַ)、そこを耕させ(עָבַד)、また守らせた(שָׁמַר)


  • 主要動詞は、神が人をエデンの園に「連れて来て」、「置いた」のです。「エデン」とは「楽しみと美味しさの豊かなところ」「贅沢きわまりないところ」という意味ですが、神はそこに人を連れて来て置いたのです。「置いた」と訳された動詞は「ヌーアッハ」(נוּחַ)で、「安息を与える、憩わせる」という意味もあります。何のために置いたのかと言えば、ヘブル語原文では「そこを耕すために」、また「そこを守るために」とあります。

(1)「耕す」とは

  • どの木からでも思いのまま食べてよいと言われたエデンの園で、なにゆえに人は「耕す」必要があったのでしょうか。「耕す」とは祭司的務めで、神から与えられたすばらしいものを味わい、その喜びを見出す務めです。エデンの園にある安息を十分に楽しむためであると考えられます。ヘブル語の「ヌーアッハ」(נוּחַ)は、イェシュアのことばの約束にもあります。それはマタイの11章28節で「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(新改訳2017)の「休ませてあげます」が「ヌーアッハ」です。
  • 「ヌーアッハ」の名詞「メヌーハー」(מְנוּחָה)は「憩い」「安息」を意味します。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」という詩篇23篇の「いこいの水のほとり」の「憩い」、これが「メヌーハー」です。つまり、主が私をそこ(憩い、安息)へと伴われるのです。主との深い親密な交わり、かかわりが私たちに安息をもたらすのです。エデンの園はそうした安息のある場所だったのです。神の与える安息を味わい、そのすばらしさを楽しむという務めが「耕す」という言葉に込められています。

(2) 「守る」とは

  • しかしもう一つ、「守る」という務めがあります。それはいわば王的務めです。「エデンの園」を治め、管理するという務めです。なにゆえこの務めが必要なのでしょうか。最初の人アダムはこの務めについてよく分からなかったのではないかと思われます。神が光と闇を区別されたように、エデンの園を光の園として管理し、闇の支配から区別することです。その証拠に、17節で「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われました。つまり、食べてよい木と食べてはならない木を区別するように言われたのです。これは、神である主が光と闇があることを予め人に教えているということです。エデンにある良いものを存分に楽しむことができますが、闇の支配があること、そのためにその支配に陥らないように、人は次の神の声に聞き従わなければならなかったのです。
  • 後に、神は人類の救いの担い手となるべく選ばれたイスラエルの父祖、アブラハムに対して次のように言われました。

【新改訳2017】 創世記22章18節
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである

  • 創世記22章と言えば、アブラハムの信仰生涯において最大の試練となった出来事を記す箇所です。その試練に勝利したアブラハムに対して神が語ったことばは、「あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」でした。神の声に聞き従うということは、どんな犠牲(いけにえ)にも勝ることなのです。しかしアブラハムの子孫であるイスラエルの民はそのことに失敗しました。そこで神の御子イェシュアが遣わされました。御子イェシュアのしたことはまさにこの「御父の声に聞き従うこと」だったのです。イェシュアはアダムの失敗を、イスラエルの民の失敗を踏み直すために、第二のアダムとして、また真のイスラエルとして「エデンの園を回復する」ために来られたのでした。アダムに与えられた「祭司的務め」と「王的務め」は、教会に対しても、またイスラエルに対しても、「祭司の王国」(出エジプト記19:6)、「王である祭司」(Ⅰペテロ2:9)、「王国とし、祭司としてくださった」(黙示1:6)として継承されています。

2018.11.29

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