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2章15節「神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に」


創世記2章15節

【新改訳2017】
神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、
そこを耕させ、また守らせた。

【聖書協会共同訳】
神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住ませた。
そこを耕し、守るためであった。

טו וַיִּקַּח יְהוָה אֱלֹהִים אֶת־הָאָדָם וַיַּנִּחֵהוּ בְגַן־עֵדֶן
לְעָבְדָהּ וּלְשָׁמְרָהּ׃

べレーシート

●創世記2章9~14節には、人が置かれるエデンの園がどういうところであるかが記されていました。そこに神である【主】は人を連れて来られたのです。何のために連れて来たのかを記しているのが、この15節です。ここで初めて登場する三つの語彙「置く」「耕す」「守る」について取り上げます。

1. 「置く」とは

●主要動詞は、神が人をエデンの園に「連れて来て」(「取って」を意味する「ラーカハ」לָקַח)、そしてそこに「置いた」です。「エデン」(עֵדֶן)とは「喜びに満ちたところ、楽しみと美味しさの豊かなところ」「贅沢きわまりないところ」という意味です。神はそこに人を連れて来て、置いたのです。この「置いた」と訳された動詞は、すでに2章8節にも「置かれた」とありましたが、そこでは「スィーム」(שִׂים)で、15節の「置いた」は「ヌーアッハ」(נוּחַ)です。それは「安らかに(自分の力ではなく)導かれる、安息を与えて憩わせる」という意味があり、それこそが人をエデンの園に置いた神の最終目的なのです。

●このことばは、神のイスラエルに対する働き、また教会、および全人類に対する働きが、神をして彼らを神の国(御国)へ導くことを示しています。

●ヘブル語の「ヌーアッハ」(נוּחַ)は、イェシュアのことばの約束にもあります。それはマタイの11章28節で「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(新改訳2017)。の「休ませてあげます」が「ヌーアッハ」です。

●「ヌーアッハ」の名詞「メヌーハー」(מְנוּחָה)は「憩い」「安息」を意味します。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。」という詩篇23篇の「いこいのみぎわ」の「いこい」、これが「メヌーハー」です。つまり、主が私をそこ(憩い、安息)へと伴われるのです。その主との深い親密な交わり、かかわりこそが私たちに安息をもたらすのです。エデンの園はそうした安息のある場所だったのです。神の与える安息を味わい、そのすばらしさを楽しむために人が何をすべきかと言えば、そこにを「耕す」ことと「守る」という務めでした。

2.「耕す」とは

●どの木からでも思いのまま食べてよいと言われたエデンの園で、なにゆえに人は「耕す」必要があったのでしょうか。「耕す」とは祭司的務めです。「耕す」と訳された動詞の「アーヴァル」(עָבַר)は、神に「仕える」、すなわち、神を「礼拝する」ことと同義です。人が土地を耕すのは、神が地に生えさせるもの(与えたもの)に仕えることであり、それは神を礼拝することにつながります。以下の聖句の「仕える」とは、神を「礼拝する」ことを意味しています。

【新改訳2017】出エジプト記 10章8節
モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、【主】に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」

【新改訳2017】出エジプト記 10章11節
そうはさせない。さあ、壮年の男子だけが行って、【主】に仕えよ。それが、おまえたちが求めていることではないか。」こうして彼らはファラオの前から追い出された。

【新改訳2017】出エジプト記 12章31節
彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って【主】に仕えよ

【新改訳2017】出エジプト記 23章25節
あなたがたの神、【主】に仕えよ。そうすれば、主はあなたのパンと水を祝福する。わたしはあなたの中から病気を取り除く。

【新改訳2017】申命記 11章13節
もしわたしが今日あなたがたに命じる命令、すなわち、あなたがたの神、【主】を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら、

【新改訳2017】ヨシュア記 24章18節
【主】はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、【主】に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」

【新改訳2017】ヨシュア記 24章21節
民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは【主】に仕えます。」

●神はいつの時代でも神を礼拝する者を求めているのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書4章23~24節
23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです
24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

●神はご自分を礼拝するものを「求めておられる」ということが現在形であることから、聖書は初めから終わりまで、神が真の礼拝者を求めておられるという視点からまとめることができるのです。⇒「礼拝の聖書神学的構築の試み」を参照。

3. 「守る」とは

●もう一つ、「守る」(「シャーマル」שָׁמַר)という務めがあります。これは祭司的務めを保持し、守っていくためのいわば王的務めです。「エデンの園」を治め、管理するという務めです。なにゆえこの務めが必要なのでしょうか。最初の人アダムはこの務めについてよく分からなかったのではないかと思われます。つまり、管理するとは「食べる」ことに関してです。そのために人は神の声に聞き従わなければならなかったのです。それが「守る」(「シャーマル」שָׁמַר)ということばに表されているのです。

●後に、神は人類の救いの担い手となるべく選ばれたイスラエルの父祖、アブラハムに対して次のように言われました。

【新改訳2017】 創世記22章18節
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。

●創世記22章と言えば、アブラハムの信仰生涯において最大の試練となった出来事を記す箇所です。その試練に勝利したアブラハムに対して神が語ったことばは、「あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」でした。神の声に聞き従うということは、どんな犠牲(いけにえ)にも勝ることなのです。しかしアブラハムの子孫であるイスラエルの民はそのことに失敗しました。そこで神の御子イェシュアが遣わされました。御子イェシュアのしたことはまさにこの「御父の声に聞き従うこと」だったのです。イェシュアはアダムの失敗を、イスラエルの民の失敗を踏み直すために、最後のアダムとして、また真のイスラエルとして「エデンの園を回復する」ために来られたのでした。

●最初のアダムに与えられたエデンの園における「祭司的務め」と「王的務め」は、イスラエルの幕屋・神殿においても、また教会、御国においても重要な務めです。最後のアダムはイスラエルと教会を「祭司の王国」(出エジプト記19:6)、「王である祭司」(Ⅰペテロ2:9)、「王国とし、祭司としてくださった」(黙示1:6)としています。つまり、創世記の「耕すこと」と「守ること」、すなわち「祭司的務め」と「王的務め」とは、神の家である幕屋、神殿、教会、御国、天のエルサレムに住む者の永遠の務めなのです

2018.11.29(改定2020.4.16)
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