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2章25節「人とその妻は・・恥ずかしいとは思わなかった。」


創世記2章25節

【新改訳2017】
そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、
恥ずかしいとは思わなかった。

【聖書協会共同訳】
人とその妻は二人とも裸であったが、
互いに恥ずかしいとは思わなかった。

כה וַיִּהְיוּ שְׁנֵיהֶם עֲרוּמִּים הָאָדָם וְאִשְׁתֹּו
וְלֹא יִתְבֹּשָׁשׁוּ׃

●25節は3章7節とつながりがあります。なぜなら、3章7節ではアダムとその妻の目が開かれ、自分たちが裸であることを知って、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作ったからです。「自分たちのために腰の覆いを作った」ことがどういうことか、その意味を知ることで、はじめて25節の「裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」という意味が明らかになります。ですから、3章7節で再度取り扱いたいと思いますが、「恥ずかしい」とは、私たちが考えるように、外見的なからだのことでも、羞恥心のことでもありません。

●「恥ずかしい」と訳された「ボーシュ」(בּוֹשׁ)は、「水源が涸れる」状態を示すことばで、神とのいのちの関わりを喪失した無力な状態を意味します。神に造られた二人は裸でしたが、それは決して無力な状態ではなく、すべてにおいて充足された、豊かな存在であったことを表わしています。そのことを「互いに恥ずかしいとは思わなかった」と表現されているのです。本来の彼らの使命は、神にある「充足されたいのち」を保つことであったことを示しています。罪を犯すまでは・・。

●それゆえ、罪を犯すまでの「裸」と、罪を犯してからの「裸」とでは、当然その意味が変わってきます。罪を犯した後の「裸」は、全く無力で、みじめな状態を表わすものとなりました。その原因は神以外のものに従った罪、すなわち、偶像礼拝(淫行、姦淫)によるものです。そのことが歴史の中で次第に明らかになっていくのです。

【新改訳2017】ホセア書2章2~4節
2 「問いただせ。あなたがたの母を問いただせ。彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないから。その顔から淫行を、その乳房の間から姦淫を取り除け。
3 そうでなければ、わたしは彼女の衣をはぎ取って(「アーローム」עָרוֹם)にし、生まれた日のようにして彼女をさらし、荒野のようにし、砂漠の地のようにして、渇きで彼女を死なせる。

【新改訳2017】イザヤ書 20章4節
そのように、アッシリアの王はエジプトの捕虜とクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも(「アーローム」עָרוֹם)にして、裸足のまま、尻をあらわにして、エジプトの恥をさらしたまま連れて行く。

※これらはイスラエルの民に、エジプトの軍事力に頼ることをやめ、神にのみ信頼することを教えています。


2020.6.14
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