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2章4節


創世記2章4節

【新改訳2017】創世記2章4節
これは天と地が創造された(בָּרָא)ときの経緯(תוֹלְדוֹת)である。
神である【主】(יהוה אֱלֹהִים)が地と天を造られた(עָשָׂה)ときのこと。

【聖書協会共同訳】創世記2章4節
これが天と地が創造された次第である。
神である主が地と天を造られたとき、


1. 1章と2章の相違は矛盾ではなく視点の相違

  • 創世記2章4節は[前半]と[後半]があります。つまり、それ以前とそれ以後に書かれてあることの分岐点となっています。聖書協会訳共同訳は前半を句点とし、後半を句読点にしていることで、分岐点があることを明確に示しています。その分岐点とは創造の経緯についての視点の相違です。とりわけ、それは人の創造とその目的についての視点の相違です。
  • 1章の場合の「人」(アダム)は、神のかたちに似せて創造された「人」です。創造の冠として被造物を支配する「人」です。しかも「生めよ。増えよ。地を満たせ」という命令を与えられた「人」です。ところが、2章の場合の「人」(アダム)は、1章で創造された創造の冠としての「人」の使命が実現するために、神によって特別に形造られた「人」、すなわち、祭司としての存在が啓示されているのです。これから少しずつ学んでいきますが、祭司の主要な務めは、神のために働くことではなく、主の臨在の中で過ごすことにあります。そのことによって、霊において、主と一体(「エハード」אֶחָד)となり、主によって完全に満たされる存在となります。「最初のアダム」は祭司として形造られ、その失敗を踏み直される「最後のアダム」であるイェシュアによって祭司の務めが回復されているのです。このようにうに、創世記2章において、神である主がアダムを祭司として造り出したと考えるなら、5節以降のことがより理解されてくるのです。神である主が人を形造ることについては、2章7節で扱います。

2. 前半の「これは」

  • これは」と訳された代名詞は、原文では「これらは」(複数)という意味の「エーッレ」(אֵלֶּה)で、その単数形は「ゼ」(זֶה)です。しかもこの「ゼ」(זֶה)の初出箇所は創世記5章1節で、そこでは「アダムの歴史」について書かれているのです。しかし2章4節では「アダム」のみならず天地創造の全体を内容としているため、複数形の「エーッレ」(אֵלֶּה)となっているのです。日本語訳のほとんどがその違いを表記せず、いずれも「これは」で訳しています。ただ関根正雄訳は「エーッレ」(אֵלֶּה)を2章4節を「以上は」と訳し、5章1節の「ゼ」(זֶה)を「以下は」と訳しています。複数か単数かの違いは見分けられませんが、適訳だと思います。

3. 前半の「経緯」

  • 経緯」と訳された語彙は「トールドート」(תוֹלְדוֹת)です。これは「家系、系図、由来、次第、歴史」とも訳されますが、語源は「生む」を意味する「ヤーラド」(יָלַד)です。創世記5章1節の「トールドート」(תוֹלְדוֹת)は「系図」と訳されていますが、その系図の特徴は「だれがだれを生んだ」(「産む」は女性の場合に使われます)という定式で記されています。マタイの福音書1章の系図もこの定式で記されています。イェシュアにつながるきわめて重要な系図なのです。へブル人たちはなぜ系図を重んじるのでしょうか。それは、彼らが「生めよ。増えよ。地を満たせ」という神の至上命令を果たすために特別に選ばれた民だからであり、やがては神のご計画が実現されて、多くの実を結ぶためだからです。
  • 創世記には10の系図(תוֹלְדוֹת)が記されています(脚注)。いずれも「これは・・の系図(歴史)である」という定式で書かれていますが、単数の「ゼ」(זֶה)を使っているのは5章1節だけです。その理由は、その箇所では「系図」(תוֹלְדוֹת)にではなく、「(系図の)書」である「セーフェル」(סֵפֶר)」(単数)に掛かっているからです。「トールドート」(תוֹלְדוֹת)は複数であるため「エーッレ」(אֵלֶּה)が使われていますが、多くの聖書が「これは」と単数的に訳しています。


4. 「神である【主】」

  • 創世記1章では「天と地」となっていて、天にあるものについても記されていますが、創世記2章では「地と天」となっており、天に関する記述がありません。もっぱら「地」に関することだけです。「大地」の「アダーマー」(אֲדָמָה)と「人」の「アーダーム」(אָדָם)は語呂合わせとなっています。また、創世記1章は「」(「エローヒーム」אֱלֹהִים)であるのに対し、創世記2章では「神である主」(「アドナイ・エローヒーム」יהוה אֱלֹהִים)となっています。
  • 2章4節の後半の冒頭に、「神である主」が初めて啓示されます。これは、神の名が「」(固有名詞)であるということです。ちなみに、「神」とは一般名詞です。そもそも、神ご自身が「わたしは【主】である」(「アニー・アドナイ」אֲנִי יהוה)と自己啓示されたのは、以下にあるように、モーセに対してでした。

【新改訳2017】出エジプト記 6章2節
神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは【主】である。
⇒「自己宣言

【新改訳2017】出エジプト記 6章6節
それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。
⇒「エジプトの苦しみから導き出し、救い出し、贖う【主】

【新改訳2017】出エジプト記 6章8節
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは【主】である。』」
⇒「約束の地に連れて行き、土地を所有の地として与える【主】

  • つまり、【主】(アドナイ יהוה)ということばは、イスラエルと深くかかわる神の自己啓示だということです。ですから、2章のアダムを形造った神は、イスラエルを選び、訓練し、壊し、再創造するという含みのある概念だということです。つまり、「神である【主】」とは陶器師である神のイメージなのです。それは2章から初めて登場する「形造る」という動詞「ヤーツァル」(יָצַר)いう語彙と深く関係しています。これについては、「神である主は、土地のちりで人を形造り」という2章7節で再度、取り扱いたいと思いますが、「神である【主】」という語彙が登場してくる創世記2章は、出エジプト記の出来事と深く関連しているということが重要なのです。

脚注

天地創造からヤコブの孫、すなわちイスラエルの部族の先祖に至るまでの系図(「トールドート」תוֹלְדוֹת)です。すべて【新改訳2017】です。
(1)「これは、天と地が創造されたときの経緯である。」(2:4)
(2)「これはアダムの歴史の記録である。」(5:1)
(3)「これはノアの歴史である。」(6:9)
(4)「これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。」(10:1)
(5)「これはセムの歴史である。」(11:10)
(6)「これはテラの歴史である。」(11:27)
(7)「これは、・・アブラハムの子イシュマエルの歴史である。」(25:12)
(8)「これはアブラハムの子イサクの歴史である。」(25:19)
(9)「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。」(36:1, 9)
(10)「これはヤコブの歴史である。」(37:2)

●2章4節は「経緯」と訳し、他はすべて「歴史」と訳されています。歴史は、イスラエルの民がアダムとどのような関連でつなかっているかということを記しています。ですから、聖書ではイスラエルに関係のない歴史(系図)はどんどん切り捨てられていきます。
●創世記1~3章は明らかに、イスラエル民族の救済の枠の中で記されています。宗教的な事柄(神が人と共に住むということ)に焦点が合わせられているのであって、科学的な興味を満たすことでも、単なる一般の歴史的なことに焦点が合わせられているわけでもありません。宗教的な事柄にはそれ特有の象徴的表現が多く使用されているのは言うまでもありません。科学的知識を当てはめるなら多くの矛盾が出てきます。

2018.11.29(2019.11.4改定)


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