2. ヨシュア記の構造(2)
歴史書(1)の目次
ヨシュア記2. 構造(2)
B. 侵 入
神の《事実》を《信仰》によって受け止め、その戦いがなされる。
(1章12節~5章12節)
(1) 用意周到な準備
① 指揮系統の確認
戦いにおいて指揮系統が明確であることが重要である。(1章10節~2章)② 愛の連帯意識の確認
三部族(ルベン族、ガド族、マナセ半部族)の協力を確認。③ 的確な情報収集
斥候によってエリコの住民は神がエジプトにしたことを聞いて震えおののいているという事実を知らされた。④ 信仰の女性ラハブのいのちをかけた行動
遊女ラハブはボアズの母である。
(2)ヨルダン渡渉(3章)
神を信じることは大きなリスクが要求される。ヨルダン渡河は危険きわまりない。この行為は無謀のように見える。なぜなら「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれる」(15節)からである。しかし「あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれる」(5節)ということで前進命令が出た。そして神の啓示に従って、足を水に入れたとき、神の不思議は起こった。
① 二つの渡渉経験
イスラエルの民がエジプトを出て渡ったものが二つある。一つは、紅海渡渉である(出エジプト14章)、そしていま一つはヨルダン渡渉である。その相違点はなにか・・。② ヨルダン渡渉の霊的意義
a. 紅海徒渉・・・・・水のバプテスマ・・〔身代わりの十字架〕
b. ヨルダン渡渉・・・聖霊のバプテスマ 〔磔殺の十字架〕
- 新約的には両方ともキリストの十字架の死を意味する。本来的には一つの出来事であるが、私たちの心の鈍感さのゆえ、二つの経験には時間差がある場合が多い。特に、ヨルダン渡渉はローマ書6章11節の事実を、信仰をもって経験することである。ところが私たちの感情はなかなかその事実に同意できない。十字架によって救われても、「私はまだ自由ではない。私は常に罪に悩まされている。罪から解放されているのは信じられない。罪に対する勝利は、そんな簡単に得られるものではない。努力を重ねなければ・・」と多くのクリスチャンは考える。そのため実に多くの者が律法の努力の中に閉じ込められ、敗北感を味わう。これこそサタンの策略である。このみじめな自分をだれが救い出してくれるのか。⇒ローマ6章、ガラ2章19~20節参照。
(3) ギルガルでの宿営 (※脚注)
① 記念の石(4章)
部族の代表12名がそれぞれひとつずつ石を取り、記念の石として据えた。このことが象徴するものは何かa. 人々の記憶の中に主のみわざをとどめるためのしるしとしての様態、礼拝、聖算式、先礼式、洗足式、結婚記念日、召天者記念、献堂○周年記念日、記念誌やあかし集等。
b. 記念の石の意味(20~24節)
後の世代に主のみわざを教えるため/ 地のすべての民が主の御手が強いことを知るため/ 主の民が主を恐れるため② 割礼の実施(5章)
神はギルガルで新しい世代に割礼を施すことを命じられた。a. 契約の民としてのしるしとして割礼
ⅰ. アブラハムの場合 (創世記17章)
ⅱ. モーセの場合 (出4章24~26節)b. 霊的割礼の意義と重要性
ⅰ. 新創造の重要性・ガラテヤ6章15~16節、ピリピ3章2~3節
ⅱ. 肉に割礼を施す・・肉は神に従うことはできない。むしろ反逆する。あらゆる自己顕示欲、傲慢、嫉妬、批判、さばき、自己憐憫、被害者意識等。
ⅲ. イスラエルの民は肉を象徴するエリコ、およびカナンの町に神の聖なるさばきを振りかざす前に、まず自分の肉に真理の小刀をあてる必要があった。③ 過越の祭り
神の民としてのルーツの確認。過越のいえにえを食する割礼を受けた者(5章10~12節)だけに限られていた。過越のいけにえをささげた翌日、その地の産物を食べた。もうマナはなかった。
※脚注
ヨシュアとイスラエルの民はひとつひとつの戦いにおいて、常にギルガルの本陣営に戻り、次の戦いに備えた。ギルガルに戻ることが勝利の秘訣であった。
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