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2. 詩篇の序文としての詩篇1篇と2篇

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

2. 「詩篇」の序文としての詩篇1篇と2篇

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ベレーシート

  • 詩篇1篇と詩篇2篇は、詩篇全体の序文的位置にあります。この二つの詩篇を理解することは、詩篇を瞑想する上で、いや聖書全体を理解する上できわめて重要な鍵を握ることになると考えるようになりました。このことは、今から2年前(2014年)の「キリストの再臨と終末預言」の瞑想を終えた頃、明確に意識するようになりました。
  • 聖書を読む時に、常に、自分に適用して読もうとすることは重要なことです。しかしそうした習慣だけで聖書を読もうとするとき、主観や先入観が入ってしまい、聖書が語っている客観的な事実を、聖書が訴えかけている事柄を見落としてしまうことが多々あるのです。詩篇の1篇、2篇はそのことの一つの例です。

1. 詩篇1篇のキーワードは何か

  • 先ずは、詩篇1篇の前半部分(1~3節)を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】詩篇1篇1~3節
1 幸いなことよ。悪者(複数)のはかりごとに歩まず、罪人(複数)の道に立たず、あざける者(複数)の座に着かなかった、その人(単数)。
2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

(1) キーワードは「その人」(「ハー・イーシュ」הָאִישׁ)

  • 上記のテキストを見ると、「その人」という語彙が四回登場します。ところが、ヘブル語原文を見ると「その人」である「ハー・イーシュ」(הָאִישׁ)は1回限りです。残りはすべて人称代名詞(3人称男性単数)で表されています。ヘブル語の動詞には必ずその主体となる人称代名詞が含まれています。例えば、1節では次のようになります。悪者(複数)のはかりごとに(彼は)歩まず、罪人(複数)の道に(彼は)立たず、あざける者(複数)の座に(彼は)着かなかったところの「その人」。
  • 1回限りの「ハー・イーシュ」がどこで使われているかといえば、この詩篇の冒頭部分です。

    画像の説明

  • 冒頭部分に使われている「その人」(ハー・イーシュ)がキーワードなのです。それがなかなか分かりにくい理由が二つあります。一つの理由は、訳文のまずさです。つまり、冒頭にある「何と幸いなことか。その人は」というフレーズを前面に出さず、「その人」についての説明を先に数々述べてから、最後に「その人」という語彙を置いているために分かりにくいのです。原文を見るなら、一発で「その人」について書かれていることが印象づけられます。
  • 冒頭の「アシュレー・ハー・イーシュ」(אַשְׁרֵי־הָאִישׁ)の「アシュレー」(אַשְׁרֵי)は連語形複数とも解釈できますが、ここではむしろ感嘆詞と理解すべきです。「何と幸いなことか、その人は」が冒頭で宣言され、それに続いて関係代名詞「アシェル」(אֲשֶׁר)によって「その人」(「ハー・イーシュ」הָאִיש)が説明されています。1節では消極的表現(~せず、~しなかった)で、2節では積極的表現(~する)で説明されています。

(2) 際立つ、単数形で現わされる「その人」

  • もう一つの分かりにくい理由は、日本語では単数と複数が明確に訳されていないという点があります。単数か複数かが不明確であるために、単数形で表される「その人」が浮かび上がって来ないのです。「その人」は単数男性ですが、1 節、および4〜6 節に登場する①「悪者」②「罪人」③「あざける者」④「正しい者」は、すべて複数形です。そうした複数形に囲まれている単数形としての「その人」なのです。

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  • しかも、「神に逆らう者」(複数)は「その人」(単数)とその人につながる「正しい者」(複数)の集いに立つことは出来ず、やがては両者は完全に分離し、その運命も明確に区別されています。
  • 「その人」は「神に逆らう者」たちに囲まれていますが、一線を画しています。悪者たちのはかりごとに歩まず、罪人たちの道に立たず、あざける者たちの座に着かなかった人なのです。つまり、彼らとは「くびきをともにしない」、分かたれた存在なのです。それゆえ、ひときわ目立つ存在なのです。

(3) 「その人」の行動様式

  • また、「その人」の行動様式も一風変わっています。普通の人は「座る」⇒「立つ」⇒「歩む」というサイクルを繰り返しますが、「その人」は普通とは真逆で、「歩む」⇒「立つ」⇒「座につく=住む、とどまる」という存在の源泉へと向かう方向を指し示しています。その源泉は、常に「【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ところにあります。神のトーラーを何よりも喜びとし、どんな時でも、それを「口ずさむ」(牛や羊のように「反芻する」、「にれはむ=繰り返し、繰り返しかみしめ続ける」)性質を持ち合わせた存在なのです。
  • また「その人」(「ハー・イーシュ」הָאִישׁ)は、敵対する者たちの中にあっても、常に、主にあって、単独で立つことのできる人です。そのように考えるならば、「その人」とはまさにイェシュアのことだと理解できます。イェシュア自身、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)と言われたことからも明白です。
  • 「その人」は一見単独で立っているように見えますが、厳密にはそうではありません。「主」の中に常にとどまっていることで、主との一体性を保っています。また、そのような主との一体性を保っていることを「幸いだ」と絶対的評価しているもう一人の存在がいます。私はその存在を「人称なき存在」(=御霊)と呼んでいます。「その人」とは、「人称なき存在」に常に寄り添われている存在でもあるのです。その結果、何をしても「栄える」のです。

(4) 「その人」は、なにゆえに「アダム」ではなく「イーシュ」なのか

  • なにゆえ「その人」は、人を意味する「アーダーム」(אָדָם)ではなく、「イーシュ」(אִישׁ「男・夫」の意)なのでしょうか。「イーシュ」という語彙は「ふさわしい助け手」となるイッシャー(אִשָּׁה「女・妻」の意)の存在が想定されています。つまり「イーシュ」は、助け手である妻(花嫁)となる者(「イッシャー」)との一体性を含んだ語彙であるということです。詩篇1篇ではそれは「正しい者」(複数)という形で啓示されていますが、それはやがて「キリストの花嫁」の存在を予感させます。

(5) 「その人」は主のおしえを「口ずさむ」預言者

  • 詩篇1篇の「その人」は、昼も夜も、主のおしえを「口ずさんでいる人」です。「口ずさむ」と訳された「ハーガー」(הָגָה)は「にれはむ」とも訳され、繰り返し繰り返し、反芻して思い巡らし、瞑想することを意味します。それだけではありません。瞑想したことが口をついて出てくるニュアンスをも合わせ持っています。同じ動詞が詩篇2篇1節に使われています。そこでは「つぶやく」と訳されています。心にあること、心に思っていることが口からつぶやきとなって出て来るのです。詩篇1篇の「その人」の場合は、瞑想したことが主の教えとして口から出てきました。神の御子イェシュアが口を通して語ったことば、まさに瞑想の産物なのです。
  • 預言者のエレミヤは、自分の語ることが人々の物笑いとなり、そしりとなり、あざけりとなりました。そのようなむき出しの憎悪に対して、エレミヤは「もうやってられない!」という思いに駆られたのです。ですからエレミヤは、「主のことばを伝えまい。もう主の名で語るまい」と本気で思ったのです。ところが、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(エレミヤ20:9)と告白しています。詩篇1篇の「その人」は、エレミヤのように「みことばが、心のうちで燃えさかる火のようになって」、主のことばを口から語り出すような人であったと考えられす。まさに「その人」こそイェシュアなのです(ヘブル1:1~2)。
  • このように、詩篇1篇が預言者としてのメシアを啓示しているとすれば、詩篇2篇は、主によって油をそそがれた王としてのメシアが啓示されています。詩篇1篇と詩篇2篇は詩篇の序文であり、そこにはやがて来られる真のメシアの姿が提示されていると言えます。

(6) 私たちは「その人」になることができるのか

  • 果たして、私たちは「その人」のようになることができるのでしょうか。「近づくことはできるが、完全になることはできない」というのが答えです。しかしより正確な答えは、「私たちがイェシュアのようになれるのは、私たちのからだが朽ちないからだに変えられる時」です。これこそがまさに「御国の福音」なのです。「良きおとずれを告げる」という意味のヘブル語は「バーサル」(בָּשַׂר)ですが、この語の名詞が「からだ」を意味する「バーサール」(בָּשָׂר)です。つまり、「良きおとずれ」とは、私たちのからだが贖われて完全に朽ちることのない「復活のからだ」、すなわち「御霊のからだ」に変えられることを意味しています。これが「御国の福音」、すなわち、良きおとずれを告げる事柄の内実です。
  • エレミヤが預言し、またイェシュアも約束された「新しい契約」は、この「御国の福音」を意味しています。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」


【新改訳改訂第3版】イザヤ書40章29~31節
29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける
30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。


●新しい契約が完全に履行される天の御国では、すべての者が主を知るようになるために、預言者はおりません。


2. 詩篇2篇のキーワードは何か

  • 詩篇2篇のキーワードは、詩篇1篇のキーワードと連動して以下のような表現で言い換えられています。主に油注がれた「王」(「メレフ」(מֶלֶךְ)、天の座に着いておられる方が呼ぶ「わたしの子」としての「ベーン」(בֵּן)、あるいは、人称なき存在が指し示す「御子」(「バル」בַּר)、これが詩篇2篇とキーワードと言えます。

画像の説明

  • 詩篇1篇の「その人」、および詩篇2篇の「主に油注がれた者」「王」「子」「御子」に逆らう者たちはすべて複数形で、以下のように表されています。

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2016.7.13


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