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20.「ヨハネの福音書11章の『ラザロのしるし』」


20.「ヨハネの福音書11章のラザロというしるし』」

ベレーシート

ヨハネの福音書は「しるしの書」です。多くのしるしがありますが、そのしるしはイェシュアを証しするものとして預言的であり、奧義的であり、重層的です。11章で「ラザロ」に啓示されているしるしは重要です。なぜなら、病気で死んだラザロをイェシュアがよみがえらせて、いのちを与えたからです。ヨハネ5章でも38年間病気であった人を癒やしたことがありましたが、病気で死んで四日たったラザロを生き返らせたしるしは、まさに「わたしはよみがえりです。いのちです」と言われたイェシュアの神性をこのうえなく証しするにふさわしいものです。今回のテキストは1~27節です。段落ごとに説明しながら進めたいと思います。最初の段落は1~4節です。病と死は直結しています。しかし主にあっては「死に至る病」ではなく「死に至らない病」となるのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書11章1~4節
1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。
ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。
「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」


1.「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのもの」

●1~2節に目を留めましょう。そこには「ある人が病気にかかっていた」とあり、その人が「ベタニアのラザロである」こと、「ベタニア」は彼が住む村の名前であり、彼の家族がマリアとその姉妹マルタであったことが紹介されます。「ベタニア」はヘブル語で「ベート・アヌヤー」(בֵּית־עַנְיָה)と表記します。【新改訳2017】では「ベタニヤ」から「べタニア」に改訂されました。それはギリシア語のΒηθανίᾳの音訳に従ってですが、ヘブル語から見るならば「ベタニヤ」が原語に近いのです。そしてそれは、「貧しく、苦悩の、へりくだった、柔和な者にふさわしい家」とも訳せます。

●「ラザロ」のギリシア名は「ラザロス」(Λάζαρος)ですが、彼はユダヤ人ですから、彼のへブル名は「エルアーザール」(אֶלְעָזָר)と表記されます。それは「神は助け」、あるいは「神を助けとする人」という意味になります。アブラハムの最年長のしもべであった「エリエゼル」(אֱלִיעֶזֶר)も「私の神は助け」という意味ですから、「ラザロ」と同じ意味を持った名前といえます。この「ラザロ」のことを、「あなた(主)が愛しておられる者」(3節)、「わたしたち(主と弟子たち)の友ラザロ」(11節)と言い換えています。ヨハネの福音書は「しるしの書」ですから、ラザロという名前は単なる一個人名ではなく、「主が愛しておられる者」「わたしたちの友」は、すべて「ラザロ」とみなすことができます。それは「いのちの書に名が記されている者」を代表する名前と考えることができます。そのラザロがここでは「病んでいた」(חָלָה)のです。本来なら「死に至る病」ですが、イェシュアによってよみがえることで「死に至ることのない病」とみなされているのです。ですから、ラザロは永遠のいのちを与えられるすべての者のしるしとなっています。再度、3~4節に目を留めましょう。

3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ(אֲדֹנִי)、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

●使いの者が「あなたが愛しておられる者が病気です」と言っていますが、すぐに来て癒やしてくださいとは言っていません。イェシュアに任せるかたちです。でも実際は、重篤な病であり、「死に至る病」なのです。神の民イスラエルにおける死に至る病とは一つの罪を指しています。それは偶像礼拝の罪です。「ご覧ください」と訳された「ヒンネー」(הִנֵּה)は、終わりの日を喚起する語彙です。そのときに、イスラエルの民は獣と呼ばれる反キリストに騙されて、彼をメシアと信じてしまうのです。これはまさにイスラエルが歴史の中で繰り返してきた重篤な「死に至る病」です。ですから、ラザロの姉妹たちは、「主よ(אֲדֹנִי)、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」と訴えているのです。

4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気(הַמַּחֲלָה)は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」

●4節の原文直訳
「その病気(病=アッセネイア/ἀσθένεια/הַמַּחֲלָה)は死に向かう(πρός θάνατος)のではなく、むしろ(かえって/ἀλλά)神の栄光のためです。それ(=病気)を通して、神の子(=御子)が栄光を受けるためです。」

●「それを通して、神の子(御子)が栄光を受けるため」とはどういうことでしょうか。9章で、盲人が盲目で生まれたのは「神のわざ(複数)が現れるため」とありました。神の栄光とは御子が栄光を受けることでもあります。それはイェシュアの中へと信じる者に、神の数々のわざが連鎖的に現されるということです

●ところで聖書で最初に「病んでいた」人物として登場するのはヤコブ(=イスラエル)です(創世記48章)。それは単に「死に至る病」ではなく、神の数々のわざが現される契機となっています。ヤコブとヨセフは御父と御子のように一体です。父ヤコブに愛されたヨセフは、父が病気で死ぬ前にエジプトで生まれた二人の息子マナセとエフライムをヤコブのもとに連れて行きます。ヨセフは長子の権利を与えられていたため、二倍の祝福を受ける権利を有していました。それゆえヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムは、ヤコブの祝福を受けてヤコブの実質の子となったのです(48:5)。これは「死に至る病」ではなく、「死に至らない病」の型です。なぜなら、ヤコブの実質の子とされたマナセとエフライムは、ヤコブにとってもヨセフの生涯にとっても栄光を受けることになるからです。

●「マナセמְנַשֶּׁה」という名前は「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせた」という意味です。語源は「忘れる」を意味する「ナーシャー」(נָשָׁה)ですが、接頭語の「メーム」(מ)が付け加えられることで「マナセ」となります。「マナセ」は「赦す」という意味です。ヨセフはこれまで自分が経験した苦しみの中に、自分の父のことや兄弟たちにされたことを忘れさせるほどの、帳消しにするほどの、神の臨在の祝福とご計画を見出したことを「マナセ」という名前の中に示しています。また「エフライム:אֶפְרַיִם」という名前は、「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者とされた」という意味です。「エフライム」の語源は「多くを実らす、繁殖する」を意味する「パーラー」(פָּרָה)です。ヨセフ自身「実を結ぶ若枝」とも預言されています。ヨセフの二人の息子の名前に込められた預言が成就するのは、「終わりの日」における「イスラエルの残りの者」においてです。とすれば、「死に至らない病」のラザロは、「イスラエルの残りの者」を指し示す預言的な型であると言えるのです。「終わりの日」における「イスラエルの残りの者」は、イェシュアの「いのちを与える霊」(恵みと嘆願の霊)によって悔い改める者たちであり、それは復活中の復活の出来事なのです。イェシュアが語った「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」(4節)とは、こうした数々の含みをもって重層的に語られているのです。

2.「わたしは彼を起こしに行きます」

【新改訳2017】ヨハネの福音書11章5~16節
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」
13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。
14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」

●5~6節では、イェシュアがマルタとその姉妹とラザロを愛しておられたにもかかわらず、ラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられたとあります。実際はその二日の間に、ラザロは死に、墓に葬られていたのです。ですから、「二日とどまられた」ことは、最高度の栄光を現すイェシュアの戦略でした。

●7~16節まで、イェシュアと弟子たちとのやり取りが記されていますが、その会話はかみ合っていません。イェシュアが「もう一度ユダヤに行こう」と言ったのに対し、弟子たちは「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか」と問い返しています。イェシュアの一行は今一体どこにいるのでしょうか。10章40節によれば、イェシュアは「再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された」とありますから、イェシュアの一行はヨルダンの川向こうにいるのです。その「場所」とは、神殿ユダヤ教と律法主義というストイケイアから離れた場所にいることを物語っています。しかし再びユダヤに戻るならば、石打ちにあうかもしれません。そのため、イェシュアがラザロのところに行こうと言われたので、トマスは仲間の弟子たちに「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」と言います。イェシュアとともに苦難にあうだけでなく、死ぬことさえもいとわない旨を伝えています。これはのちにペテロと他の弟子たちが言ったことと同様です。とても勇ましいのですが、それが肉による熱心さだとは気づいていません。決してそのようなことにはならないのです。というのは、「イェシュアの行くところ(つまり受難と死)に、弟子たちはついて来ることができない」からです(ヨハネ13:33)。それが主の定めだからです。

●弟子たちの心配にイェシュアは9~10節で「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです」と答えています。これはどういう意味なのでしょうか。その前に、よく似たことばをイェシュアは9章4節で語っていました。そこでは「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます」でした。それは、夜が来れば働くことができなくなるので、昼の間に急いで働くようにという意味です。しかし今回の11章では反対の意味で語られています。つまり昼間は十二時間あるのだから、あわてることはない。世の光であるイェシュアを内に持っているなら、あわてることなく、つまずくこともない。だからゆっくりと構えていなさいという意味です。

●11節以降は弟子たちに「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」と呼びかけます。イェシュアはラザロが死んだことを誰からも聞かされていないはずですが、「ラザロは眠ってしまいました。(だから)わたしは彼を起こしに行きます」と言っています。イェシュアによれば、「死ぬ」ことと「眠る」ことは同義です。「わたしは彼を起こしに行きます」と言っているのですが、弟子たちは「眠る」ことを睡眠のことだと理解しています。霊であるイェシュアのことばをたましいで受け取っているのです。イェシュアがラザロを「起こしに行く」とは、終わりの日の「イスラエルの残りの者」に対する「死からの復活」、また先に永遠のいのちに与った私たち「エックレーシア」に対する「死からの復活」を、重層的に啓示しているのです。

3.御国の福音の到来における「すでに」と「いまだ」の緊張関係を知る

【新改訳2017】ヨハネの福音書11章17~27節
17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。
18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。(※15スタディオンは約3㌔)
19 マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」

(1) なぜ「四日」?

●17節に「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた」とあります。なぜ、「墓の中に入れられて、すでに四日たっていた」のでしょうか。三日目でなくて、「すでに四日たっていた」ということは、五日目にイェシュアはラザロを起こしたことになります。なにゆえに「四日」なのでしょうか。日本の場合、死後24時間経たないと火葬はできません。当時のユダヤでは、遺体を墓に納めたとしても死を確認するのに三日間を必要とし、四日目以降は魂が戻れないと信じられていたようです。しかし、この「四日間」について別の解釈もあります。それは、神には七千年の計画があり、その中で「すでに四日たっていた」という解釈です。神にとっての一日は千年とみなされることから、「四日」は「四千年」を指します。イェシュアが登場するまでに、「すでに四千年が経っていた」のであり、五日、つまり五千年が始まる時代に「眠った者を起こす」ことをはじめられたということです。盲人の目を開けることはメシアにしかできませんが、眠り(死)から起こすこともメシアにしかできません。それゆえこの奇蹟は、イェシュアが神であることの重要なデモンストレーションなのです。

画像の説明

(1) 天地創造(アダム創造)からアブラハムまでは2千年。
(2) アブラハムからイェシュアまでは2千年。
(3) イェシュアの時代から再臨までは2千年。
(4) 6千年後、イェシュアは再臨して千年間をメシア王国として統治する。

(2) 「家で座っているマリア」

●19~20節には「マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。」とあります。「お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に」ではありませんが、マルタとマリアの仕事が分担されているように思えますが、ユダヤの葬儀を知れば理解できます。当時のユダヤの風習では故人が墓に葬られている間、友人たちがやって来て、故人が生前使っていた家具を全部ひっくり返すことがあったようです。ですから、そこに帰って来た者は、そのごった返した中で座り込んで泣いたそうです。20節の「マリアは家で座っていた」という記述には、そうした死の悲しみの風景が記されているのです。

(3) マルタの信仰

●21~27節まで、マルタとイェシュアとのやり取りが記されています。マルタの発言の意図は何でしょうか。

23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります(未来形)。」
24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえる(未来形)ことは知っています。」
25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです(現在形)。いのちです(現在形)。わたしを信じる者(現在分詞)は死んでも生きるのです(未来形)。
26 また、生きていてわたしを信じる者(現在分詞)はみな、永遠に決して死ぬことがありません。
(ウー・メー:οὐ μὴで二重否定となっており、永遠に「死ぬ」ことがないことが強調されています。)
あなたは、このことを信じますか(現在形)。」
27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております(完了形)。」

●マルタの「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」とは、ダニエル書12章に記されていることです。ユダヤ人ならこのことは良く知られていたということです。2節に「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます」とあることから、おそらくマルタはそのように言ったと思われます。

【新改訳2017】ダニエル書12章1~3節
1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。
国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。
2 ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます
ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。
3 賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。
(※「賢明な者たち」とは「イスラエルの残りの者」のことです。しかしここでは隠されています。)

●マルタのことばとイェシュアのことばは、どこが異なっているのでしょうか。御国の福音の到来における「すでにいまだの緊張関係」のバランスを知る必要性があります。私たちはマルタのようにアンバランスな見方をしてしまいやすい者です。どちらかに偏りやすいのです。「すでに」が強調されると「神の国があなたがたの近くに来ている(=ただ中にある)」(ルカ10:9)、および「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(同11:20)となります(=「実現された終末論」=神が定められていることが完全に到来したこと)。しかし「いまだ」が強調されると、「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見る」(マタイ24:30)となります(=「実現しつつある終末論」=神が定められていることが完全に到来しつつあること)。ここでの「そのとき」とは、ダニエル書12章1節の「国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時」です。「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます」(ローマ16:20)に「速やかに」とありますが、「未曾有の苦難」を経ることなしには、神のご計画が実現されることはないのです。

(4)「決定的勝利」と「究極的勝利」

●20世紀の新約学者オスカー・クルマンは、その著「キリストと時」の中で「戦争における決定的戦いはすでに為されています・・・にもかかわらず、戦争はまだ続行しているのです」と述べて、それを第二次世界大戦におけるD-day(ノルマンディー上陸作戦;フランスへの決定的上陸の日)と、V-day(ヨーロッパ戦勝記念日;連合国の最終的勝利の日)に譬えています。つまり、イェシュアの十字架の死と復活はD-dayに相当し、イェシュアの再臨はV-dayに相当します。ちなみに、D-dayの「D」は「決定的な」を意味するDeterministic、V-Dayの「V」は「究極的勝利」を意味するVictoryです。このことをバランスよく理解することが重要なのです。

●11章25節のイェシュアのことばは、そのことを表しています。

わたしはよみがえりです(現在形)。いのちです(現在形)。
わたしの中へと信じる者(現在分詞)は死んだとしても(過去形)生きるのです(未来形)。

●「すでに」と「いまだ」のバランスを正しく保ちながら、霊によって悟ることができるよう、シェーム・イェシュアによって祈ります。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2024.10.27
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