****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

21.「ヨハネの福音書11章の『出て来なさい』というしるし」


21.「ヨハネの福音書11章の『出て来なさい』というしるし」

ベレーシート

●前回の「ラザロのよみがえり」の続きです。聖書箇所は11章28~45節です。

【新改訳2017】ヨハネの福音書11章28~45節
28 マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」
29 マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。
30 イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
31 マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。
32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
35 イエスは涙を流された。
36 ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」
37 しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったこと(=わたしを聞いてくださったこと)を感謝します。
42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださる(=いつでもわたしを聞き入れられる)と、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」
43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。


1.人々の意見とイェシュアのことば

●32節にあるマリアのことば、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」は、マルタが発したことば(21節)と同じです。これは何を意味するのでしょうか。これは彼女たちの思いが同じであったということです。22節でマルタは加えて「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と言っています。つまり、イェシュアに頼めばどんなことでも叶えてくださるという信仰です。

●マルタの言う「お求めになる」と訳された「アイテオー」(αἰτέω)ということばは、新約で70回使われていますが、人が神に願うことば、求めることばとして用いられます。イェシュアが御父に対する祈りのことばには一切使われていません。イェシュアの場合には、「わたしを聞き入れられる」という言い方をします。42節がそうです。新改訳は「あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりました」と訳していますが、原文では「あなたがいつもわたしを聞き入れられると、わたしは知っていました。」となっています。なぜなら、御父と異なるイェシュアの願いというものは存在しないからです。いつでも、イェシュアと父とは一つなのです。イェシュアのことばは御父のことばそのものです。ですから、イェシュアに頼めばどんなことでも叶えてくださるという考え(信仰)はおかしいのです。それは「病気になりませんように」「癒されますように」「コロナが一日も早く収束しますように」「・・しますように」・・・といった私たちの数々の願いや求めを聞いてくれる神への信仰です。実に、「幻(=神のご計画とその目的を知ること)がなければ、民は好き勝手にふるまう」(箴言29:18)のです。11章で登場する弟子たち、マルタとマリア、その他の人々のさまざまな反応のことばはすべて、イェシュアの「わたしはよみがえりです。いのちです」という霊のことばを希薄にしてしまいます。このことを知るならば、教会における「祈祷会」を見直すきっかけとなるのではないでしょうか。

●23節で、イェシュアがマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と言ったときに、マルタは「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」と答えました。この知識は前回にも触れましたが、ダニエル書12章2節で教えられていることです。そこでは、「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に」とあります。ここは「旧約の聖徒たち」の復活のことが預言されているのです。ちなみに3節には「賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる」とありますが、「賢明な者たち」「多くの者を義に導いた者」とは「イスラエルの残りの者」のことで、彼らは霊的な復活をします。つまりイェシュアがメシアであることを信じることで、死を経験することなくメシア王国に入る者たちです。彼らは、イェシュアの伝えた御国の福音を多くの異邦人に宣べ伝えて義(救い)に導くとなるという、イスラエルの民に本来与えられた「王なる祭司の務め」を回復することで、「世々限りなく、星のようになる」のです。ただしこのことは隠されています。

●話を戻しますが、ユダヤ教のサンヘドリンを構成する祭司であるサドカイ派の人たちは死からの復活を信じませんでしたが、パリサイ派の律法学者たちは復活を信じていました(使徒23:8参照)。ですから、「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」と言ったマルタは、すばらしい信仰告白をしたのです。しかしイェシュアのことばは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか」でした。イェシュアは「わたしはすでによみがえりであり、いのちである(現在形)」ということを言われたのです。マルタとイェシュアのことばとの間に齟齬(そご)が生じています。これはマルタだけでなく、彼女の周辺の人々、および弟子たちさえも同様です。こうした齟齬はなにゆえに生じているのかと言えば、彼らのうちに霊がまだ立ち上げられていない(回復されていない)からです。ですから、39節でイェシュアが「その石を取りのけなさい。」と言ったときも、マルタは「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから」と言って、イェシュアのことばをそのまま受け入れることができないのです。

2.イェシュアの「霊の憤り」と涙

33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて
34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
35 イエスは涙を流された。
36 ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」
37 しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。

●11章には、イェシュアに敵対しない、友好的な者たちがさまざまな意見を持って登場します。
①イェシュアの弟子たち・・「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」(12節)
②マルタとマリア・・「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21, 32節)
③ユダヤ人たち・・「(イェシュアが涙を流すのを見て)ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」(36節)

●人々の反応を見たイェシュアは、33節にあるように「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」、さらには「涙を流された」のです。このイェシュアの涙ですが、人々が流した涙とは異なっていました。原因は何でしょうか。それはイェシュアの語ることばが「霊であり、いのち」であるのに対して、人々がイェシュアのことばをたましいで聞くからです。それゆえイェシュアは霊の憤りを覚え(憤慨する)、心を騒がせた(激昂した)のです。33節の「心を」と、38節の「心のうちに」の原文は、それぞれ「自分自身を」(へアウトゥー:ἑαυτοῦ)「自分自身のうちで」(エン・へアウトゥー:ἐν ἑαυτῷ)となっています。ヨハネの場合、「自分自身」と「霊」とは同義です

●霊のことばを、たましいで聞いてもその真意は伝わりません。噛み合わないのです。そのことを人間にもたらしたサタンに対して、イェシュアは霊のうちで「憤りを覚える」(エイブマオマイ:ἐμβριμάομαι)と同時に、「心を騒がせた」(タラッソー:ταράσσω)のです。前者は「厳しく責める」(マタイ9:30, マルコ1:43, 14:5)という意味で、後者は「激昂する」という意味ですが、その激しい感情の対象はサタンです。35節の「涙を流された」という表現も尋常のレベルではありません。ユダヤ人たちの言った「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」も、イェシュアの心情とは完全な齟齬があります。

3.イェシュアの「出て来なさい」という叫び

39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったこと(=わたしを聞いてくださったこと)を感謝します。
42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださる(=いつでもわたしを聞いてくださる)とわたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」
43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

●43節の「大声で叫ばれた」の「叫ぶ」(クラウガゾー:κραυγάζω)は、7回のうち6回がヨハネで使われています。しかしイェシュアが叫んだのはこの箇所だけです。残りは「群衆たちの声」です。たとえば、
①12章13節「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
②18章40節「その人ではなく、バラバを」(バラバは強盗です)
③19章6節「十字架につけろ。十字架につけろ」
④19章12節「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」
⑤19章15節「除け、除け、十字架につけろ。」

●ヨハネの18~19章は、群衆のイェシュアに対する憎悪の叫びの章です。その背後で悪魔が操っているのを見ます。しかし11章43節では、悪魔に対する憎悪のことばとしてイェシュアが唯一、大声で叫んだ叫びとして「ラザロよ、出て来なさい」があります。「出て来なさい」の原文は「外に出て来なさい」となっています。「出る」を意味する「デューロ」(δεῦρο)と、「外へ」を意味する「エクソー」(ἔξω)が組み合わされています。ヘブル語訳では「ウーラー・ヴァーツェーアー: עוּרָה וָצֵאָה」で「目を覚まして・起きて」(ウール: עוּר)「出て来なさい」(ヤーツァー: יָצָא)となります。あるいは、「クーム・ツェー:קוּם צֵא」とも訳されます。「ウール: עוּר」も「クーム:קוּם」も復活用語です。

●「出て来なさい」とは「墓から出ること」を意味しています。墓は人を死によって閉じ込めている象徴です。そこから出て来ることが「よみがえりであり、いのち」なのです。まさにイェシュアこそ「わたしはよみがえりです。いのちです」と宣言しています。イェシュアこそ、はじめて死からよみがえられた「初穂」です。そのことを表したのが「四日」というしるしでした。前回でも述べましたが、神にとっての一日は千年と見なされます。ですから「四日」は「四千年」を指します。ユダヤの歴史ではイェシュアが登場するまで、すでに四千年が経っていたのであり、五日、つまり五千年が始まる時代に、イェシュアは死からよみがえられた「初穂」となり、「眠った者を起こす」ことを始められたということを意味しています。生まれつきの盲人の目を開けるのもメシアにしかできませんでしたが、眠り(死)から起こすこともメシアにしかできません。それゆえ、この奇蹟はイェシュアが神であることの最も重要なデモンストレーションなのです。

画像の説明

●使徒パウロの場合は「墓」ではなく、人を閉じ込めている霊的現実を「罪と死の律法(νόμος法則原理)」(ローマ8:2)と言い表しました(ちなみに、パウロが「罪と死の律法」ということばを使ったのはこの箇所だけ)。あるいは「文字(もんじ)による、死に仕える務め」(Ⅱコリント3:7)とも呼んでいます。いのちとは死の束縛から解放されることを意味します(ローマ8:2)。それは神殿ユダヤ教と律法主義という「ストイケイア」(もろもろの悪霊による宗教体系)から出て「いのちの御霊の律法」に生きることを意味します。また、ユダヤ教という「宿営・陣営」(παρεμβολή)から、「偶像礼拝の地」から(ἔξω)、「」から、いのちであるイェシュアのところに出て行く(ἐξέρχομαι)ことを意味します。これらはすべて同じことを意味しているのです。

●ところで、聖書をヘブル的に読むとはどういうことでしょうか。ヘブル的とはギリシア的と対峙します。ギリシア的とは人間中心の価値観(世界観)です。それに対抗するヘブル的とは神中心の価値観(世界観)です。聖書をヘブル的に読むとは、神のことばをたましいで理解するのではなく、霊で理解することを意味します。たとえば、

39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」・・・赤字の部分がマルタのことばがたましいの理解です。
40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
・・・青字の部分がイェシュアのことばが霊の理解です。

●「霊で読む」とは、霊とたましい(=こころ)を切り分けることです。どのようにすると切り分けられるのかといえば、「シェーム・イェシュア」(イェシュアの御名)と呼ぶことによってです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」とあるように、「シェーム・イェシュア」と呼び求めることで、霊とたましい(=こころ)を切り分けて、聞いたり、理解したりすることができるのです。信じますか。信じるなら、それが実体化します。

【新改訳2017】エレミヤ書33章2~3節
2 「地を造った主、それを形造って堅く立てた主、その名が主である方が言われる。
3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』

●「あなたが知らない理解を超えた大いなることを告げられる」ことが、私のうちに始まっている。このことがすでに「よみがえっている証し」なのです。ですから、イェシュアの中へと信じる者は、「(墓の)外に出て来なさい」「・・から出て来なさい」というイェシュアのことばを、霊で正しく受け取らなければならないのです。

●信仰の父アブラハムはヘブル人(イヴリー:עִבְרִי)と呼ばれていました。なぜなら、「イヴリー:עִבְרִי」の語源の「アーヴァル」(עָבַר)には「川を渡って来た者」という意味があります。事実、アブラハムは偶像の町ウルから呼び出され、ユーフラテス川を渡って、カナンの地にやって来た人です。それゆえ彼は「ヘブル人」と呼ばれたのです。そのアブラハムが信仰の父であるならば、同じ信仰を持つ者も川を渡る必要があるのです。それは「死から復活すること」を意味するのです。その意味で、イェシュアの「~から出て来なさい」は「死から復活への招きのことば」となるのです。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙11章8~12節, 13章14節
8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました
9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、
同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。
10 堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。
11 アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
12 こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように(イスラエルの残りの者)、また海辺の数えきれない砂のように(大勢の異邦人)数多くの子孫が生まれたのです。
13:14 私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。

●12節は創世記22章17節の成就です。「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る」と約束されています。アブラハムは偶像礼拝の地であったウルから出て来たのです。アブラハムの生涯は「レフ・レハー」(לֶךְ־לְךָ)との主のことばに従った生涯でした。

画像の説明

●いずれの翻訳にも訳されていない箇所が実は原文にはあります。それは「レフ・レハー」לֶךְ־לְךָの「レハー」לְךָの部分です。「レフ」לֶךְは「ハーラフ」הָלַךְの命令形。そして「レハー」לְךָは前置詞の「レ」לְに人称代名詞の接尾辞(二人称単数)ךָがついたもので、「あなたのために」という意味です。この「レフ・レハー」は、アブラム(アブラハム)がこれまでの自分自身に対して訣別することを意味しています。神の救いのご計画を実現するために選ばれたアブラムが、自分の国や生まれ故郷、そして自分の父の家から出るだけでなく、これまでの古い自分の殻(=肉)からも出て旅立つことを、主がアブラムに促したことばなのです。それはアブラムの人生にとっても、良い意味で「自分のため」となります。

●世から、自分の肉から、ストイケイアという宗教的制度から、そしてそれらによってもたらされる「死」からの「レフ・レハー」を神は求めておられるのです。へブル人への手紙13章13節に「宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」というフレーズがあります。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙13章12~13節
12 それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
13 ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか

●ここでの「宿営」とは直接的には「ユダヤ教」です。すなわち、キリストを拒絶したユダヤ教の宗教組織、ユダヤ教の制度を意味します。イェシュアをメシアとして信じたユダヤ人(メシアニック・ジュー)がユダヤ社会で生きることの難しさから、元のユダヤ教に戻ってしまう者たちがいたのです。この手紙はそのような人々のために書かれた手紙です。13章13節のみことば「宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」は、この手紙の結論です。

●キリストを拒絶したのはユダヤ教だけでなく、この世も、そして私たちの「」(=たましいとからだ)もキリストに敵対するのです。ですから、この「宿営」ということばは、「この世」や人間の「肉」とも言えるのです。それは、イェシュアが仮庵の祭りに誕生され、この祭りに公生涯を開始され、またこの祭りの時期にイェシュアが再臨されることを知りながら、異教を取り入れたクリスマスを祝うようなものです。これは肉の中にいることを意味しています。それは宿営の中に安住して、その中で営むことを意味すると言えます。キリストは、この「宿営」の中にはおられません。キリストのおられるところはどこでしょうか。それは「イェシュアの御名」があるところです。そこは「天の御座」であり、同時に「私たちの霊の中」です。イェシュアの中へと信じる私たちは、この世でも肉でもなく、またキリスト教という宗教組織や宗教制度のストイケイアでもなく、そこから離れて、イェシュアの御名の権威のもとに集まるべきです。

4. 「ほどいてやって、帰らせなさい」

44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

画像の説明

●「ほどく」とは「解放する」ことを意味する「リューオー:λύω」のアオリスト命令形。「帰らせなさい」とは「~させる」の「アフィエーミ:ἀφίημι」のアオリスト命令形と、「戻す」を意味する「ヒュパゴー:ὑπάγω」の現在不定詞が使われています。「ほどいてやって、帰らせなさい」とは一体何を意味しているのでしょうか。ラザロはイェシュアの「ラザロよ、出て来なさい」との呼びかけによって、死人の中からよみがえらされました。イェシュアの霊のことばを聞いて生き返らされたのです。しかし、墓の石を取りのけ、手と足に巻かれた長い布をほどいてやり、帰らせるためには人の協力が必要だということです。つまり「ほどいてやって、帰らせなさい。」ということばは、復活による信仰共同体の主体的・自覚的必要性の預言だということです。パウロの手紙には、「共に」を意味する「スン」(σύν)を伴う数多くの合成語が使われています。それはエックレーシアを「建て上げる」ために必要な接頭語の「スン」(σύν)です。たとえば、離散している者たちを「集める、集められる」を意味する「スナゴー」(συνάγω)をはじめ、「共に出迎える」「共に住む」「共に食事をする」「共に喜ぶ」などです。しかも、その「スン」は「完全に」という意味も含んでいるのです。復活のいのちは共同体の中で証しされるということです。

ベアハリート

45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。
(「イエスを信じた。」=回復訳「彼の中へと信じた。」)

●イェシュアのみわざを見たユダヤ人の多くが、イェシュアを信じたとあります。ある者たちは見たにもかかわらず、イェシュアをメシアと信じることはできなかったということを意味しています。信仰は私たちの霊の残滓に触れられることによって生じるのです。「永遠のいのち」に定められている人は必ず霊に触れられて、イェシュアを信じるようになるのです。人の霊とキリストの霊は共に働いて信仰を与えるだけでなく、イェシュアの霊のことばの真意を理解させます。それゆえ霊を働かせる必要があります。イェシュアはラザロが「死に至る病い」にあることを聞かされたにもかかわらず、すぐにラザロのところに行きませんでした。ここでもしイェシュアを「冷たいな」と感じたとしたら、それはたましいの理解です。しかし霊で受け取るなら、ラザロが死ぬことを許されたのは、それを通して神の栄光が現されるためであったことが分かるのです。死がなければ、復活を証しすることはできません。復活は死を前提とするのです。ですからイェシュアは愛する者の死を通して、復活の力を証しされたのです。主がなされることはすべて神の栄光の現れのためです。

●今回は特に「ラザロよ、出て来なさい」から、アブラハムへの「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(第三版)の「レフ・レハー」を取り上げました。主にある者たちはみな「揺り動かされない御国」に向かって旅をしているのです。神の民とされた者は、「地上では旅人であり寄留者」であったとしても、やがては神が設計し建設される「堅い基礎の上に建てられた都」(ヘブル11:10)に「いつまでも住む」ことになるのです。そのためには、信仰の勇気をもって「宿営の外に」出るということが不可欠です。それはひとえにイェシュアのもとへ、イェシュアのただ中に入っていのちに与るために他なりません。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2024.11.10
a:684 t:1 y:0

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