22.「ヨハネ11章の『一人が民に代わって死ぬ』というしるし」
22. ヨハネの福音書11章の『一人が民に代わって死ぬ』というしるし
ベレーシート
●前回はラザロのよみがえりというしるしを扱いました。死んで「四日目」はすでに腐っていることを表しています。ユダヤの歴史ではイェシュアが来るまでに、すでに四日間(四千年)経っていました。五日目はメシア・イェシュアが死を打ち破った日を象徴しています。これが「ラザロのよみがえり」のしるしです。これを契機に、ユダヤ当局(最高法院)は本格的にイェシュアを殺す決断をするのです。その決断は「一人の人が民に代わって死ぬことの方が得策である」と言った大祭司カヤパのことばに基づいています。今日のテキストは11章45~57節です。
【新改訳2017】ヨハネの福音書11章45~57節
45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。
46 しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた。
47 祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。
48 あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」
49 しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。
50 一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」
51 このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
53 その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。
54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。
55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づいた。多くの人々が、身を清めるため、過越の祭りの前に地方からエルサレムに上って来た。
56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って互いに話していた。「どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか。」
57 祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。
1. 一人の人が民に代わって死ぬことの方が得策である
(1)「得策」ということば
●「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ」という発言は、完全に人間の肉で語っています。「得策だ」と訳されたことばは、「益となる」という動詞「スンフェロー」(συμφέρω)です。このことば自体は良い意味にも悪い意味にも使われます。その違いは主体の違いです。イェシュアがこのことばを用いるとき、どのようなことが「益となる」のでしょうか。新約では15回使われていますが、その中からイェシュアが使った箇所とその他の一つを見てみると、以下の五つです。
①【新改訳2017】マタイの福音書5章29節
もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。
からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
②【新改訳2017】マタイの福音書5章30節
もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。
からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。
③【新改訳2017】マタイの福音書18章6節
わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、
大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
④【新改訳2017】ヨハネの福音書16章7節
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
⑤【新改訳2017】ヘブル人への手紙12章10節
肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
●①~②では、燃えるゲヘナに投げ込まれるよりは、たとえ片手、あるいは片目を失ってもいのちに入るほうがよいことだとしています。イェシュアは「いのちに入る、いのちを得る」ことの永遠の価値、永遠につながる益の重要性を強調しています。それに対して、私たち人間の益はなんと肉的でしょうか、肉にとって得なことは、神を愛する者にとっては得にならないのです。「肉の思いは神に敵対する」(ローマ8:7)とパウロは語っています。それゆえ、④と⑤は霊の父が助け主である御霊を遣わされ、霊と肉とを切り分けるあらゆる訓練を私たちの益のためになされるとあります。つまり、私たちにとって真に「得になること」「益となること」を知るには、天(御座)にある観覧席から俯瞰する必要があるのです。
●「最高法院」(祭司長たちと律法学者たち)の心配は、「あの者(=イェシュア)が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう」というものです。「すべての人があの者を信じるようになると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう」とはどういう意味で言っているのでしょうか。ユダヤのすべての人があの者を信じるようになると、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)を始めとするあらゆる宗教システムに亀裂が起こり、ユダヤ社会全体にも混乱が起こることで、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろうと心配しているのです。これが肉のもたらす恐れです。この肉の恐れを肉の思いで一掃しようとしたのが、大祭司カヤパの「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ」という提案なのです。今の体制を守るために「誰か一人犠牲になってもらおうじゃないか」というわけです。
(2) 大祭司の「さばきの胸当て」にある「ウリムとトンミム」
●大祭司は神から与えられた「ウリムとトンミム」によって、神のみこころをイスラエルに告げる唯一の存在でした。大祭司はイスラエルの民全体を代表し、神のみこころを聞き取るという重要な務めが与えられていたのです。大祭司カヤパは神殿ユダヤ教を仕切るサドカイ派のボスです。パウロによれば、当時のサドカイ派は復活も御使いも霊もないと考えていました(使徒 23:8)。大祭司は神から「ウリムとトンミム」を与えられていたため、「最高法院(サンへドリン)」の議長を務めていたのです。そうした地位にあった人のことばが「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ」でした。
●大祭司の「さばきの胸当て」(上図)にはイスラエルの十二の部族を示す宝石がはめ込まれています。「さばき」とは「ミシュパート: מִשְׁפָּט」で、神がイスラエルをご計画に従って統治する基本的理念です。その「さばきの胸当て」の袋の中に「ウリムとトンミム」の石が入っていました。ヘブル語では「ウーリーム: אוּרִים」と「トゥンミーム:תֻּמִּים」と表記されます。
●「ウーリーム」は「光」を意味する「オール:אוֹר」の複数形で、「光」は神のご計画とみこころ、みむねと目的(エペソ1章)を意味します。その光に従って、神はイスラエルを導き、かつ統治されます。「トゥンミーム」は「完全」を意味する「ターム:תָּם」の複数形で、「完全」は神のご計画の数々の成就・完成を意味する概念です。この二つの石によって、大祭司は神のみこころを民に示す務めがありました。しかしそうした重要な務めが果たせない時代となり、自己保身の存在となっていたのです。そのため神の御子イェシュアが遣わされたと言っても過言ではありません。のちに死から復活されたイェシュアは昇天し、天の御座に着座されたときに正式に大祭司となられます。一方、神の民であるイスラエルはいまだ民族的に神から離れた状態にあります。これも異邦人に福音が伝えられるための神の深いみこころによるものです。しかしイスラエルはやがて必ず神によって集められ、神のあわれみの霊によって悔い改め、「イスラエルの残りの者」として立ち上げられます。そして本来の「王なる祭司」としての務めを果たすのです。ここに神の奥深い「ミシュパート: מִשְׁפָּט」があると言えます。
(3) ストイケイア
●イェシュアが来られた時の大祭司は、完全に「ストイケイア」の支配下にありました。祭司たちが霊的に堕落するとどうなるのかと言えば、国が滅びるのです。イスラエルの歴史でそのことを経験したにもかかわらず、大祭司カヤパはそこから学ぶことなく、自分の既得権を守ることだけに終始していました。これこそが「この世のもろもろの霊、この世の幼稚な初歩の教え」(ガラ4:3,9、コロ2:8, 20、ヘブル5:12)であり、たましいが喜ぶ教えであり、「ストイケイア」の正体なのです。しかし神は、このことを承知の上で、つまり肉の思いさえも取り込んで、ご自身のご計画を実現・成就してしまわれる方なのです。
●大祭司カヤパは、自分の言ったことが、神から言わせられたことであることに気づきませんでした。
51 このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民(=ユダヤ人)のために(=身代わりとして)死のうとしておられること、
52 ・・・・・・・・・・・・・・・・・を、預言したのである。
●51~52節に「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、・・・を、預言したのである」とあるように、彼の言ったことばは、神によって言わせられた台詞だということです。このようなことは、イェシュアの弟子ペテロも経験しています。
【新改訳2017】マタイの福音書16章16~17節
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
●その後イェシュアが、エルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた時、ペテロが語ったことばに対して、イェシュアは「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と語っています。つまり、ペテロの語ったことばは自分のことばではなく、サタンのことばを語っているということです。つまり霊によらないことばは、容易にサタンのことばとなりうるということです。とすれば、イェシュアがご自分の語ることばはすべて「霊であり、いのちです」と言われたことがいかに大きな意味を持つかを思い知らされます。ですから、イェシュアの語ることばに耳を傾ける必要があるのです。
●イェシュアが語った「わたしは苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる」ということばは、神の決定事項としての事柄であり、それによって人が死から解放されることを意味しています。それゆえ、メシアの受難と死は避けて通ることはできないのです。イェシュアの死と復活を通して、誰も逃れることのできない死の支配から救い出してくださるのが、真のメシアであるイェシュアだからです。50節の「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ」という「イェシュアによる身代わりの死」というカヤパの提案は、神のシナリオに従って言わせられているのです。50節でカヤパの言う「国民全体」とは、主の祭りに集まって来るユダヤ人全体を表しています。そして53節では、カヤパの提案に従って「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ」とあります。このことも成り行きでそうなったのではなく、世界の基が据えられる前にすでに定められていたことであるゆえに、そうなったに過ぎないのです。
2. 散らされている神の子らを一つに集めるための死
●カヤパは自分の提案が預言となり、国民全体が国を失い、世界離散することになるとは夢にも思わなかったに違いありません。さらに、イェシュアの死は散らされている神の子らを一つに集めるためとの預言だとされますが、「一つに集める」ということの中に、イェシュアの復活の事実を含んでいることを忘れてはなりません。
52 また、ただ国民のためだけでなく、
散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
●「散らされている神の子らを一つに集める」こと、つまりイスラエルの離散の民を「一つに集める」ことは、旧約に繰り返し語られている預言であり、神がご自身の民を「一つに集める」目的は、その中から真の神の民を建て上げるためです。ミカ書2章12節には、「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める」とあり、三つの「集める」という語彙で表されています。「囲いの中の羊」と訳された部分は、新改訳の脚注によれば、「ボツラの羊」とも読めるとしています。「おり」とか「囲い」と訳されるヘブル語がエドムの「ボツラー:בָּצְרָה」と同じ綴りだからです。「ボツラ」は、「イスラエルの残りの者」が獣と呼ばれる反キリストの支配から逃れる場所です。彼らは「恵みと嘆願の霊」を注がれ、十字架につけたイェシュアこそ神の御子メシアであることに霊の目が開かれます。そのことによって、彼らはイェシュアを王としてつき従い、一つの群れとなるのです。
●ミカ書2章12節で重ねられている動詞は「アーソーフ: אָסֹף」で「集めに、集めて」です。これを「必ずみな集める」と訳しています。さらにもう一つの動詞は、「アーソーフ」と同義の「カーヴァツ: קָבַץ」で、それが重ねられて「呼び寄せ、呼び寄せる」です。これを「必ず呼び集める」と訳しています。そのようにして、神は「イスラエルの残りの者」を囲いの中の羊のように一つの群れにするということです。そしてこのことが、ことごとく、確実になされるのです。「集めに、集めて」「呼び寄せ、呼び寄せる」のは、ヤコブの真の羊飼いであり、王であるメシア・イェシュアです。このイメージは、イェシュアがヨハネの福音書10章ですでに語っていました。
53 その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。
54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。
55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づいた。多くの人々が、身を清めるため、過越の祭りの前に地方からエルサレムに上って来た。
56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って互いに話していた。「どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか。」
57 祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。
●54節の「そのために」とは、その前の節にあるように「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ」からです。それゆえ、「イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された」のです。しかしそれは「時が来るまで」の滞在です。55節に「ユダヤ人の過越の祭りが近づいた」とあります。イェシュアの公生涯の最後の祭りとなる「過越の祭り」ですが、そこで、宗教指導者たちによって苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことが御父のご計画であることをイェシュアが語っていました。
●56節の「彼ら」とは「祭司長たち、パリサイ人たち」のことです。「彼らはイエスを捜し、宮の中に立って互いに話していた。『どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか。』」と訳されています。「捜し」と訳された「ゼーテオー:ζητέω」は未完了形で、イェシュアを「熱心に(しきりに)捜し続けていた」という意味です。また、「宮の中に立って互いに話していた」の「話していた」も未完了形で、互いに「繰り返し語っていた」のです。何を語っていたのでしょうか。新改訳2017では「どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか」と話していたと訳されていますが、原文はどうなっているでしょうか。原文は「あの方が祭りの中に来ることは決してないだろう」というニュアンスです。ところが12章1節を見るなら、彼らの予想に反して、「さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた」とあります。しかも「そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた」とあります。これは、これからイェシュアの身に起こることの予表となっているのです。
3.神のご計画とみこころを俯瞰する眼
●ヨハネの福音書から一時目を離して、今回の箇所から「神のご計画とみこころを俯瞰する眼(視点)」を持つことの必要性(重要性)について考えてみたいと思います。
①【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙2章6~9節
6 しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。②【新改訳2017】ヨハネの黙示録21章2節
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて(ἑτοιμάζω)、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
●ここに二つの聖句を挙げました。共通する語彙があるのですが、気がついたでしょうか。その共通する語彙とは、原語「ヘトイマゾー:ἑτοιμάζω」です。①のⅠコリント人への手紙2章9節では「備えてくださった」と訳され、②のヨハネの黙示録21章2節では「整えられて」と訳されています。それは時間的経緯を経て「整えられた」という意味ではなく、時間を超えた永遠の世界ですでに「備えられ、整えられて、準備されていた」という意味です。これが、聖書全体の本体(シナリオ)なのです。
●「聖なる都、新しいエルサレム」がすでに「整えられて」(ヘトイマゾー:ἑτοιμάζωの完了形受動態の分詞)とあります。これは①の「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」で、神がやがて現すべくあらかじめ「備えてくださった」ものとつながっています。ヨハネはそれが神のみもとから(ἀπὸ τοῦ θεοῦ)出て、天から(ἐκ τοῦ οὐρανοῦ)降って来るのを見たのです。ここは同義的パラレリズムです。ヨハネがそれをどこで見たのかと言えば、それは「山」です。黙示録21章10節では「御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き」とあります。聖書で「山」(ハル:הַר)といえば、そこは神の啓示の場です。
●「整えられている」のは、歴史の終わりである「メシア王国」と、永遠における「新しいエルサレム」という二つの面があります。前述の①と②は後者であり、以下の③~⑥、および⑧は前者です。
③【新改訳2017】マタイの福音書 25章34節
それから王は右にいる者たち(=羊たち)に言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた(用意されていた/完了受)御国を受け継ぎなさい。④【新改訳2017】マタイの福音書 25章41節
それから、王は左にいる者たち(=やぎたち)にも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ(ἀπ' ἐμοῦ)、悪魔とその使いのために用意された(用意されていた/完了受)永遠の火に入れ。⑤【新改訳2017】ヘブル人への手紙 11章8~10節
8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。
10 堅い基礎の上に建てられた都(=この都は「メシア王国のエルサレム」)を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。⑥【新改訳2017】ヘブル人への手紙 11章16節
しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意された(アオリスト)のです。⑦【新改訳2017】ヨハネの黙示録12章6節
女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日(=三年半)の間、人々(=最も小さな者たちを助ける者たち=羊たち)が彼女を養うようにと、神によって備えられた(完了受分詞)場所があった。⑧【新改訳2017】ヨハネの黙示録19章6~8節
6 また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。
7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができた(アオリスト/携挙の備えができた)のだから。
8 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された(原文は「~が与えられた」)。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
ベアハリート
●このように、「整えられた」「備えられた」「用意された」という一つのことば「ヘトイマゾー:ἑτοιμάζω」を探ることで、神のご計画の天的・霊的な領域を俯瞰することができるのです。神に敵対する者が賢いと思って為すことを、神は逆手に取ってご自身のご計画を実現させてしまうという「神の知恵」、これを人はだれ一人知らないという事実。もし知っていたならあえて神に敵対することはしないはずであり、それを知らないゆえに敵対してしまうのだとパウロは語っています。私たちは、神のご計画の天的・霊的な領域を俯瞰する知恵をいただいて、「主を恐れることは知識の初め」(箴言1:7)という意味を悟らせていただけるように、シェーム・イェシュアを求めていきたいものです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。
2024.11.24
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