****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

23.「ヨハネの福音書12章の『香油』というしるし」


23. ヨハネの福音書12章の『香油』というしるし

ベレーシート

●ヨハネの11章は「しるし」のクライマックスです。イェシュアはラザロをよみがえらせることで、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と宣言します。しかし、このしるしがイェシュアに対する最終的な敵意を誘発し、イェシュアを死に導く筋書きを決定的なものとさせています。指導者たちは最高法院(サンへドリオン:συνέδριον)に集まり、そこで大祭司カヤパはこう言います。

【新改訳2017】ヨハネの福音書11章49~53節
49 ・・・「あなたがたは何も分かっていない。
50 一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」
51 このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
53 その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。


●ユダヤ人(宗教指導者たち)がイェシュアを殺そうとしていることに、群衆たちも、そしてイェシュア自身も気づいていました。その理由はイェシュアがラザロにしたことだけではありません。すでに5章には「イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである」とあります。38年もの間、病気であった人を、イェシュアが安息日であったにもかかわらず癒やしたことで、ユダヤ人の宗教指導者たちは「イエスを殺そうとするようになった」のです(5:18)。

●「殺すようになった」は「ゼーテオー:ζητέωの未完了形+アポクテイノー:ἀποκτείνωの不定詞」で、「殺すことを(継続的に)懸命にする」とのニュアンスです。これが7章(1,19~20, 25節)でも、8章(37, 40節)でも、そして11章53節の「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ」につながり、12章に至っては、祭司長たちがイェシュアのみならず、ラザロさえも殺そうと企んだのです。その動機は、ラザロになされた出来事によって多くのユダヤ人が去って行き、イェシュアを信じるようになったからです(12:11)。「去って行く」は「離れて行く」で、それが未完了形で表されています。つまり民衆が継続的に宗教指導者たちから「離れて行った」ということです。そして離れた者たちはイェシュアがエルサレムに入られるのを聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」と叫んだのです。祭司長たちの動揺が目に見えるようです。その動揺は彼らの存在の基盤が神ではなく、民衆に依拠していたためです。その民衆も民衆で数日後にはイェシュアに対する期待が失望に変わります。ユダヤ当局の扇動も加わって、彼らは「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫ぶようになり、イェシュアを死へと追いやったのです。しかし、これは神にとっては想定内のことでした。イェシュアに対する宗教指導者たちの敵対心の要因を、イェシュアは以下の辛辣なことばで示しています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 8章44、47節
44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています・・・。
47神から出た者は、神のことばに聞き従います。
ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」


1.葬りのためのマリアの行為

【新改訳2017】ヨハネの福音書12章1~3節
1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。
そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。
マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(※「三百グラム」新改訳改訂第三版)取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

●11章53~54節で「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。」とあります。イェシュアの退避は神の時を待つために他なりません。ユダヤ人の過越の祭りが近づき、多くの人々が身を清めるため、過越の祭りの前に地方からエルサレムに上って来たように、イェシュアの一行も、過越の祭りの六日前にベタニアに来られたとあります。並行記事のマタイ26章によれば、祭りの期間、イェシュアの一行が滞在したのは「ツァラアトに冒された人シモンの家」であったことが分かります。おそらく、ツァラアトに冒された人シモンはイェシュアによってきよめられた人と思われます。その家にマルタもラザロも、そしてマリアも合流し、夕食を用意してイェシュアの一行をもてなしたのです。相変わらずマルタは給仕をし、ラザロは弟子たちの話の相手をし、マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イェシュアの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐうことでイェシュアをもてなしたのです。このマリアのもてなしは、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」マリアにしかできない、ふさわしいもてなしでした。なぜなら、それはイェシュアが死んで葬られることを見越してなされた預言的行為だったからです。弟子たちさえも、イェシュアが「エルサレムで苦しめられ、殺され、三日目によみがえる」と三度も語ったにもかかわらず、誰一人として理解した者はいませんでした。しかしマリアだけはそのことを理解したのです。まさに、マリアはイェシュアの霊でありいのちであることばを、霊によって信じる者の型だと言えます。その彼女が「純粋で非常に高価なナルドの香油」をイェシュアの足に塗ったのです。

●なぜ彼女はイェシュアの頭ではなく、手やからだでもなく、足(原語は双数)に香油を塗ったのでしょうか。答えはイェシュアが13章の洗足で語っています。そこでは、「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言うペテロに対して、イェシュアは「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです」と言っています(13:9~10)。足は全身を包括するということです。つまりイェシュアの足に香油を塗ることは、イェシュアの全身に香油を塗るに等しいということです。さらに、「足」を意味するヘブル語の「レゲル:רֶגֶל」の初出箇所から、それは滅びた(=滅んだ)地の上で、新しい歩みが始まることの象徴とも言えます(創8:9)。

●「ナルドの香油」の「ナルド」(נַרְדְּ)は「香りを放つ」という意味ですが、その表記が示すように、これはヘブル語ではなく、ペルシアのことばをヘブル語で表したものです。この香料は最も高価なものです。ベタニアのマリアが、なぜそのような高価な香料を持っていたのか分かりません。彼女の住むベタニアは「ベート・アニッヤー」(בֵּית עֲנִיָּה)と言って「悩みの家、貧しい家」という意味です。まさにその家は「人となられたイェシュア」に最もふさわしい家と言えます。なぜそうと言えるのか。それをパウロが明らかにしています。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~9節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました

●イェシュアの死は、ご自分を空しくし、自らを低くした、恥辱の極みである十字架の死であり、他に比べることのできない最も高価な死であるからです。高価な香油がイェシュアの足に注がれたということは、イェシュアの死が最も高価な死であったことを啓示しています。

●マタイの福音書で、東方の博士たちがユダヤの王が生まれたとのしるしを見てエルサレムを訪れ、預言が示すベツレヘムで、幼子イェシュアにふさわしい「黄金・乳香・没薬」を献げています。黄金は王なるメシアのために、没薬は死と葬りのため、そして乳香は復活のためです。「没薬と乳香」はイェシュアの「死と復活」を象徴する香料なのです。かつて幕屋には、大祭司が香壇で献げる「聖なる香」があり、それは四つの香料を調合して作られました(出30:34~38)。「聖なる香」の成分は〔ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香〕+〔純粋な乳香〕です。四つのすべてが調合(ミングリング)されて「聖なる香」を生み出すのですが、〔ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香〕がイェシュアの死を啓示し、〔純粋な乳香〕はイェシュアの復活を啓示しています

●香料がいかに高価なものであったのか、それを裏付ける話があります。それはソロモンのところに、シェバの女王が来訪した時のことです。

【新改訳2017】Ⅰ列王記10章1~2、10節
1 ときに、シェバの女王は、主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやって来た。
2 彼女は非常に大勢の従者を率い、バルサム油(べサーミームבְּשָׂמִים)と非常に多くの金および宝石をらくだに載せて、エルサレムにやって来た。・・・・
10 彼女は百二十タラントの金と、非常に多くのバルサム油と宝石を王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くのバルサム油は、二度と入って来なかった

●この箇所を見るなら、幕屋の「香料」(出25:6, 35:8)も「バルサム油」も原語は同じく「べサーミームבְּשָׂמִים)」です。それがいかに高価なものであり、希少なものであるかが理解できます。イェシュアがベタニアのマリアに香油を塗られることによって、イェシュアが高価な死という代価を払われる方であることが証しされているのです。幕屋で献げられる「聖なる香」はイェシュアの死と復活を証ししています。また「聖なる香」が神に献げられることで、神からの「聖なる注ぎの油」(出30:25)により、幕屋のすべて(祭司と祭司の装束、幕屋で使われる器具)が聖別されるのです。

画像の説明

【新改訳2017】Ⅰヨハネの手紙2章20, 27~28節
20 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。
27 しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい
28 さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。

●私たちのうちに聖なる方からの「注ぎの油」があるのは、イェシュアが「聖なる香」を神に献げてくださったからです。そのからくりを信仰をもってしっかりと受けとめるだけでなく、シェーム・イェシュアと呼んでその力に与りましょう。

2.「三百」という数の奥義

【新改訳2017】ヨハネの福音書12章4~8節
4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです
8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」

●イェシュアを裏切ったイスカリオテのユダは、この香油の価値を三百デナリと値積もりました。金銭に敏感だったユダの値積もりによる「三百」もしるしとなっているのです。「三百」は「3×100」という倍数ですが、聖書で「三百」という数はどこに見られるでしょうか。新約ではこの香油の値積もり以外にはありませんが、旧約では以下の例を見ることができます。

①【新改訳2017】創世記 5章22節
エノクはメトシェラを生んでから三百年神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。

●エノクの生涯は365年。彼は聖書の中で初めて「神とともに歩んだ」⼈です。息子が生まれるまでの65年間は、主とともに歩むことはありませんでした。ところが息子が生まれたことを契機として神とともに歩んだのです。ここの「歩む」がヒットパエル態で、自発的・主体的に歩み出したことを表しています。エノクが「神とともに歩む」ようになったのは、息⼦が与えられた時に神からの特別な啓⽰を受けたからだと考えられます。つまり、エノクが息⼦の名を「メトシェラ」(ヘブル語表記では「メトゥーシェラハ:מְתוּשֶׁלַח」)と名付けたのは、その息⼦が死んだ後に神のさばきが来るという啓⽰を受けたからです。「メトゥー」は「死」を意味する「ムート:מוּת」、「シェラハ」は「遣わす」を意味する「シャーラハ:שָׁלַח」を由来としています。そのことを知った時から、エノクは「神とともに歩む」ことを始めたのです。エノクは終わりの時(ノアの洪水によるさばき)を絶えず意識しながら⽣きた⼈の型です。イェシュアは御国の福音のために「死ぬために遣わされた方」であり、やがて終わりの時に再び再臨される方です。その時はさばきの日となり、また同時に救いの日ともなります。エノクはイェシュアを証ししています。

②【新改訳2017】士師記 7章6節
すると、手で口に水を運んですすった者の数が三百人であった。残りの兵はみな、膝をついて水を飲んだ。

●これは「ギデオンの精鋭三百人」です。彼らは三万二千人の民から神によって抜擢された者たちです。神の抜擢の基準は敵前意識の有無です。彼らは常に敵前意識を持っていた祭司たちの象徴です。「臨戦態勢をとる」ということはどういうことでしょうか。ある働きをする場合、その働きや計画に対して、必ずやそれに反対する者がいるものです。そうした状況に直面したときに崩れない態勢を常に備えておくことが「臨戦態勢をとる」ということです。どこから突かれてもいいように、前もってそれを予想し、それを跳ね返すだけの準備をしていることです。その例の一人として、エルサレムの城壁を再建したネヘミヤにそれを見ることができます。彼は城壁再建事業をする前に周到な準備をしています。それゆえに、その事業を阻もうとする敵が立ち上がったとき、それに対処することができ、短い期間でその事業を達成することができました(ネヘミヤ記2章)。しかしイェシュアこそ常に敵前意識を持って備えておられた方です。御国の福音を伝えるにふさわしいのはそのような者なのです。

3. 「三十」の奥義

●イェシュアの足に注がれた香油の値積もりを「三百デナリ」としたイスカリオテのユダですが、ちなみに彼はイェシュアを売るためにいくらで売ったでしょうか。このことはヨハネの福音書には記されていませんが、ユダがイェシュアを売った値は、なんと銀貨三十デナリでした。イェシュアの価値はユダにとって、マリアの香油に比べて十分の一の価値でしかなかったようです。ところが神は、この三十デナリを最も価値あるものとされたのです。それはどういうことでしょうか。

●実は、ゼカリヤ書11章13節に、主がゼカリヤに命じて行わせた預言的行為があります。

【新改訳2017】ゼカリヤ書 11章13節
主は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

●この預言的行為はイェシュアにおいて文字通りに成就します

① 【新改訳2017】マタイの福音書 26章15節
こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
② 【新改訳2017】マタイの福音書27章3~10節
3そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
4 「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
5 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。
6 祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」
7 そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした
8 このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。
9 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。
「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。
10 主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」

●太字の部分「そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした」という部分が重要です。ここからは「銀貨三十枚の奥義」の話です。少し話が難しくなります。祭司長たちと長老たちが、ユダが返却した銀貨三十枚を何のために使ったのかを見てみたいと思います。そもそも銀貨三十枚は一体どこから支出したものなのでしょうか。おそらく神殿の金庫から支出したものと考えられます。それがユダから返された時に、「血の代価」を神殿の金庫に入れるのは許されないとして、相談して陶器師の畑を買い、異国人のための墓地にしたことが記されています。このことはゼカリヤ書が預言していることですが、なぜ「預言者エレミヤを通して語られたことが成就した」と書かれているのでしょうか。それは、イェシュアの時代の「タナフ」の預言書の順がエレミヤ、エゼキエル、イザヤになっていたことによるものです。エレミヤは預言者の代表格であったので、マタイはゼカリヤを引用する時に「預言者エレミヤを通して」と書いたようです。

●出エジプト記 21章32節によれば、「もしその牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない」とあります。そもそも、銀貨三十枚という額は、奴隷のいのちの代価なのです。ですから、宗教指導者たちがイェシュアをそのような価値のない者とみなしたということが分かります。ユダも同様です。しかしそれは人間的な観点、人間的な価値観です。神の観点からするならば、銀貨三十枚は決して価値のないものではなかったのです。イェシュアのいのちは計り知れないほどの価値をもっているのです。

●「銀三十」が、なぜゼカリヤ(=イェシュア)がイスラエルの指導者たちから値積もりされた「尊い価」であるのでしょうか。「尊い価」と訳された語彙は「尊い、見事な」を意味する「エデル」(אֶדֶר)と「栄誉、宝」を意味する「イェカール」(יְקָר)からなっているのを見ると、単に価値が高いというイメージではないことが分かるのです。「三十」のヘブル語は「シェローシーム: שְׁלֹשִׁים」です。「三」は「シャーローシュ」(שָׁלֹשׁ)で、その語源である動詞「シャーラシュ」(שָׁלַשׁ)は「三度する、三日目にする」という意味で使われます。「三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝4:12)ともあるように、「三」は神の数であると同時に、神と人、人と人とを結びつける確かな約束のあかしの数でもあり、拡大と増幅をもたらす無限な神の数でもあるのです。したがって「三十」はその倍数で、なおさらそのことが強調されている数と言えます。つまり銀三十(銀貨三十シェケル)は神の創造的な数と言えるのです。実はこのことが幕屋の中に隠されていました。モーセの幕屋には贖いを意味する銀(ケセフ: כֶּסֶף)が多く使われています。「三十」という数は、人間的な観点で見れば少ないかもしれません。しかし神の観点で見れば「尊い価」とされているのです。

●神は、イスラエルの民の一人当たりの「贖いのための銀」を半(1/2)シェケルとしました(出30:12~16)。とすれば、ユダヤの指導者たちによって値積もりされたイェシュアの銀三十枚は60人分になります。これは幕屋の庭の60本の柱(アカシヤ材)の「柱頭のかぶせ物」(銀)に相当します。またレビ記27章では、人が「特別な誓願」を立てる時、例えば20~60歳までの男子の場合(イェシュアもこの範囲に入ります)は、銀五十シェケルを献げます。それは一人当たりの贖いの価の100倍(100人分)にもなります。これは、幕屋の聖所で人には見えない、48枚の板の銀の台座96個と、仕切りの垂れ幕を支える4本の柱の銀の台座4個を合わせた数(96+4=100)に等しいのです。

画像の説明

●イェシュアが値積もられた「銀貨三十枚」は、メシア王国においてさらなる増幅と拡大を繰り返して、やがてはアブラハムに約束された「あなたの子孫は、このようになる」ということが実現されるのです

【新改訳2017】創世記15章5節
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」


三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2024.12.08
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